河﨑秋子インタビュー「Bプラスで満点、それが介護――等身大の家族の物語に込めた想い」

作家の書き出し

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河﨑秋子インタビュー「Bプラスで満点、それが介護――等身大の家族の物語に込めた想い」

インタビュー・構成: 瀧井 朝世

 

誰かを推せるって才能

——琴美は札幌でテレフォンオペレーターの仕事に就きますが、生活は単調です。そんな彼女の心の拠り所となるのが、女性アイドルグループに所属する18歳のゆなという女の子です。

河﨑 私には「推し」がいないんですが、推しがいる方がすごく羨ましくて。アイドル好きな方のお話をうかがったり、「推し活」をしている方のSNSを拝見したりして、本当に人生を楽しんでいるなと思いました。「次のライブを見るまでは死ねない」というパワーってすごいですよね。

 人を推せるというのは才能だと思うんです。だからこそ、琴美にはその才能でもって、辛い現実を生き抜いてほしいなと。

——SNSでのファン同士のやりとりの文面や、琴美の脳内でのオタク的な言葉遣いが実に軽妙で楽しいです。難しい状況もシリアスになりすぎずにやり過ごす強さも感じて。

河﨑 自分にはない感覚を表現する難しさはありましたが、疑似的に誰かを推す体験ができるという楽しさもありました。愛しているがゆえに運営にチクリと言いたくなる気持ちなんかは自分でも想像できますし。

——また、琴美は介護者同士が語り合う、ひまわりクラブに参加しますね。参加者それぞれが語る介護体験や悩みがリアルでした。

河﨑 在宅介護をしている家庭って、どうしてもその家族の中だけで世界が完結してしまいやすいんです。そんなガラパゴス状態の中で、誰かと少し話すだけで気持ちが安らぐところはあると思います。私の実家の周囲にはひまわりクラブのような集まりはなく、せいぜい同じような立場の近所のおばさんと愚痴を言いあう程度だったので、こういう場があればもっと気が休まっただろうなという憧れを反映させました。

 あと、介護の程度が当事者たちの幸福度を決めるわけではない、というのは書いておきたかったところです。たとえば、琴美のお父さんは排泄の介助の必要はないけれど、ひまわりクラブの他の参加者にはそうした介助をしている人もいる。でも、だから琴美の方が幸せだ、ということではありませんよね。それぞれの家庭の、介護する側、される側の大変さというのは他人と比べられるものではないので。

——琴美の心理に関して興味深かったのは、介護用品ショップの店員に慣れた様子で応対された時、親の介護を「よくあること」だと言われて不快に感じるというシーンです。

河﨑 ここは実体験に基づいて生まれたものですね。父親が倒れていつ亡くなってもおかしくないという状態で入院先に通っていた半年間は、家族みんな精神的にどん底でした。そんな中、ショッピングモールに行くと、周囲の人たちが楽しそうに買い物をしている。すごく狭いものの見方なのですが、その時「うちの父が死にかけているのになんでみんな笑っているのだろう」と不公平感を抱いたんです。もちろん、ショッピングモールで楽しそうにしている人にもそれぞれの事情があるだろうし、うちの父の病気は彼らにはまったく関係ありません。醜い感情だと分かっているし、自分でも認めたくなかったけれど、どうしても拭い去れないものがありました。

 もしもそうしたタイミングで他の人に「よくあること」みたいに言われたら、私はたぶん怒っていたと思います。実際にそんなこと言う人はいなかったですけれど。言われるタイミングによって、受け取り方って変わってくる。琴美が介護用品ショップでイラッとしたのは、そうしたタイミングだったんですよね。

——でもその後、ひまわりクラブに参加して、いろんな参加者の介護の話を聞いているうちに、気が楽になる。その変化が印象に残りました。そこには、彼女にとって介護が日常になっていったという部分もあるのでしょうか。

河﨑 そうですね。時間とのバランスはあるだろうと思います。家族の病気を受容する、反発したり否定したりしながら生活の中に組み込んでいくのはやっぱり時間がかかることですし。ひまわりクラブに参加すると決めたのは、琴美にとってよいタイミングだったんでしょう。

コロナ禍の介護事情

——作中ではコロナ禍の様子も描かれています。この小説を書き始めた時はまだコロナ禍になる前でしたよね。

河﨑 『小説トリッパー』での連載中にコロナ禍が始まったので、現実に合わせました。現代を舞台にしているのに、コロナに触れないのは不実だろうなと感じたんです。

 実際、介護の現場にもコロナは大きな影響を与えていますよね。デイサービスに通っていたのに、施設が閉鎖されて一時的に通えなくなったり、ひまわりクラブのような集まりもなくなったり。そうしたことが現実にたくさん起こっていたので、小説の中にも反映させました。

 琴美の場合、「推し活」にも変化があります。もともと地方民は追っかけをするにしてもすごく不利ですが、コロナ禍だとさらに動きが取れなくなってしまう。それはストレスになるだろうと。

——琴美が、同級生だったエイコちゃんと会う場面もリアルだなと思いました。マスクを着けている琴美の前にマスクなしのエイコちゃんがやってきて、「コロナなんて、風邪と同じ」と言い放つ。実際、コロナ禍で、いろんな人が少しずつ違う考えを持っているんだなと実感しましたが、河﨑さんもそうでしたか。

河﨑 そうですね。私はコロナ禍になった時は実家から離れて暮らしていたのですが、もし介護をしている時にコロナが流行していたらどうなっていたかなと考えるんです。コロナに関する考え方や捉え方、対処の仕方は人それぞれで、それは医療現場、介護現場でも同じです。医学的な正解はあるかもしれませんが、それで個々人の感情を規定したり、ましてや断罪することはできない。作中ではエイコちゃんを「脱マスク」の人としていますけれども、そのことの善悪ではなく、誰だって自分とは相容れない価値観の人はいる、ということを書きたかったんです。

——エイコちゃんは独善的なところがあって、琴美の意思を確認せずにマッチングアプリを勧めてきますよね。私は「また余計なことして」と思ったんですが(笑)、琴美はアプリを活用します。そして、アプリで出会った男性に親の介護をしていることを伝えたら、相手が引いてしまう。というか、琴美はそう感じてしまう。

河﨑 琴美も真剣に相手を探そうというのでなく、ちょっと息抜きで使ってみたかったんでしょうね。私はマッチングアプリを使ったことがないので、ああいう書き方でよかったのか分かりませんが……。

 ただ、周りの人に介護をしていると言うと「えー、偉いね」と言われながらも一歩距離を置かれるのは、私も経験があります。たとえ相手はそうは思っていないとしても、自分のほうが引け目を感じてしまう。

——そうした琴美の日常の変化も面白く読みました。父親の介護に関しては、琴美は、この先親の排泄の世話ができるかということも考えるようになりますが、ここは本当に自分ならどうだろう、と考えさせられました。

河﨑 子供ならオムツの期間はせいぜい数年ですが、親の介護の場合はそれが10年続くかもしれない。私自身、いつ終わるか分からないまま父親の排泄の処理をする日々はなかなか辛いものがありました。それに、田舎でデイサービスやショートステイをお願いすると、職員に自分の同級生や、同級生のお母さんがいるんです。最後は完全に割り切りましたが、最初は、同級生に自分の父の尻を拭かせるのかと葛藤がありました。そういった状況をリアルに想像した琴美が「嫌だ」と感じて、それなら施設に預けてしまったほうが心理的に楽だと考えたのは、正直な気持ちだろうと思います。

——介護される側の尊厳を傷つけないことも大切ですが、難しい部分もありますね。

河﨑 そうした問題もありますね。介護現場で父を赤ちゃん扱いする人がいて、私も最初は内心憤っていたんです。でも次第に「しょうがないな」と思うようになりまして。そう接していたほうが介護する側の気持ちが楽ならば、それでよいかもしれないな、と。家族としては悔しくはあるのですけれど、そうすることによって介護する側が落ちついて介護できるのであれば、そこは目をつぶろうと思いました。

 家庭内介護であっても仕事としての介護であっても、介護される対象のことを第一に考えねばならないのは大前提ですが、それでも、介護する側が何もかも捧げなければならないのか、ということは改めて考えなければいけないと思います。

別冊文藝春秋 電子版46号 (2022年11月号)文藝春秋・編

発売日:2022年10月20日