議論も煮詰まり、いよいよ大詰め。
E ほんとに今でも迷ってます。どちらも短篇集じゃないですか。『ジヴェルニーの食卓』は、一つひとつが一枚一枚の絵を表現しているようで雰囲気が違う。表現や文体の印象が一篇ごとに違って、すごいと思うんです。でも『巨鯨の海』もすごい。硬い文章の人は歴史の小説を書いたり、柔らかい表現が得意な人は恋愛小説を書いたり、誰でも自分の一番得意な文体に合った話を書きたいと思うはずなのに、ここでは柔らかい文体から硬い文体まで書き分けている。
C 『ジヴェルニー』はすごく整っていて、『巨鯨の海』はすごい上がり下がりが激しくて、感情が動かされる。どっちも動かされますけど、高まりが高いのは『巨鯨』かな。
A 『ジヴェルニーの食卓』はやっぱりその絵の意味を知りたいと思うけど、『巨鯨』は生命の尊厳って、みんな知っているじゃないですか。生命は大事だよ、とか。そういうのは何回もあっちこっちで取り上げられているし、みんな知っているんですよ。知識の扉というのとテーマ追求というのだと、ちょっとタイプが違うかなあと。
B 自分の好きなやつでいいよ。
E どっちも好きだなあ。
G 性質が正反対すぎて比べられない、というのはかなりあると思うんですよ。『巨鯨』は人間の誰もが持っている根源からわき上がる本物の感情を出してくれる、だけれども、『ジヴェルニーの食卓』というのは、究極的には他者理解という文学の目標を達成させてくれる。芸術家という一般人とは異なる存在を理解するためにあるもので、自分を新しい世界に入れてくれる。ぼくは、『ジヴェルニーの食卓』を推したいと考えます。
しかし、最終評決は5:3で『巨鯨の海』に軍配が上がった!
数ある候補作の中でも、高校生たちが選んだのは時代小説、しかも戦国武将ものでも忍者物のような派手なものでもなく、小さな村での生活を描いた一見地味なものだった。意想外と言っては彼らを見くびっていたことになってしまうかもしれないが、さすがに地元の高校からはじめて何度も重ねられてきたゆえ、若々しいながらも非常に練れた議論だった。
話し合いの中で、自分の気づかなかった読みに出会い、他人はどこに価値を置くのかを知る。G君の言うように、小説を読み、語り合うとき他者理解が可能になる。読みやすさ、読後のスッキリ感、登場人物の不可解さなどは人によってプラス評価にもマイナス評価にもなる。みんなが最後まで迷っていたように、比較するには自分たちで物差しから作らねばならないのだ。それによってはじめて教科書を読むときのような「道徳」という唯一の物差しから自由になれる。
彼らは、もしかすると帰りの地下鉄や新幹線や飛行機で議論を反芻し、あるいは学校に戻って再燃させるかもしれない。大人になって読み返し、あのときは間違っていたと思うかもしれない。
それでもよい、というか人はそういう読み方しかできない。そのときそのとき腑に落ちたという思いなしに読んでも、それはただ右から左へと通り過ぎていくだけだ。今回のことは区切りではあっても終わりではない。彼らが「読む」ということに関して新しいステージに立てたとすれば、この試みの目的は果たせたことになる。
他者に出会い、自分の意見を変える。これはなにも「負け」ではなく、そのことで傷ついたりはしない。竜馬自身も、勝海舟を斬りに行ったのに、話を聞いてその場で海舟の弟子になってしまったではないか。
二年に亘りこのプログラムに参加した生徒の中には、読書の喜びに目覚めて理系から文転したり、文学に携わる仕事をしたいと思うようになった者もいると先生方から伺った。そこまででないにせよ、今回の読書経験が、次に別の作品を読むときにも必ず生かされ、自分の読みの中に他者の声を聴くことができるようになるだろう。こうしてよき読者を増やしていくことが、小説の未来にぜひとも必要だ。
竜馬は半平太に「まあ、ながい眼で見ろや」と言った。読者の世界の竜馬たちを育てるにも長い時間がかかるだろうし、そのためには支える者も必要だ。今回、この企画のために協力して下さった各高校、とりわけ事前の選考会から本選の引率まで世話を焼いて下さった先生方、また企画段階から今回の実現に向けてさまざま手配してくれた『オール讀物』編集部の方々に感謝してやまない。そして今後のために、さらに多くの協力者、とりわけ書籍の提供者を必要としている。
ともあれ、今回の八名、そして彼らを本選に送り出した数十名の高校生たちほど、今回の候補作を繰り返し読みに読み込んだ者は、大人を含めても他にいないだろう。いまだ少数ではあっても、彼らが読書や文学の世界を変える志士たちとならんことを。