――この団体では、親子は離れて暮らさなければならないというのも特徴的です。
辻村 作中に「すべての親を信用していないから子どもたちを取り上げた」という表現が出てきますが、あれは自分でも書きながらハッとしました。〈ミライの学校〉がやっていたのは、そういうことなのかもしれない、と。
子どもと親を離すという設定は、最初は子どもが親にかまってもらいたい時に親は別の方向を見ている、ということを端的に表したものでした。でも書いているうちに、親が自分の育て方に自信も責任も持てないとき、良いとされている教育方法があるならそこに子どもを任せたくなる親側の気持ちもあるだろうなと思って。だんだん、自分はそれが書きたくてこういう設定を作ったのかもしれないなと思い始めました。
――ひとつのテーマや言葉について、先生が質問を重ねて子どもたちが回答していく〈問答〉という教育方法が印象的でした。
辻村 そもそも教育ってなんだろうと考えたときに自然と思いつきました。あれこそ、実際に今も昔も子どもになされていることだと思う。「これはどうしてだと思う?」と訊きながらも、大人の中にはもう正解があって、それに沿ったことを言う子を褒める。子どもは子どもで、世の中には大人が喜ぶ答えがあると知ってしまう。それに「何か言わなきゃ」という空気があるから、ハキハキしていて自分の意見が明確にあるように見える子どもが育っていく。
〈問答〉に限りませんが、子どもの自主性を育てると言いながら、集団の中での同調圧力を強めている矛盾ってありますよね。そんな環境の中での子どもの無力さについてはぜひ書きたいと思っていました。
――先生たちも聖人君子ではなく、ところどころで偏った考えや人間臭い部分がにじみ出ますよね。そこがリアルでした。
辻村 合宿の様子についてはノリコからわかる範囲のことだけ書いていますが、子どもの目から見ても、大人たちがまるで遅れてきた青春を味わっているかのようだ――書きながら、そんな印象を抱きました。最初は思想に賛同して集まったのかもしれないけれど、考え方の近い人たちが集まると、だんだんサークルの楽しさみたいなものが生まれてきますよね。
――女性の先生が女の子たちに指導する際に「おしとやかにしましょう」と言ったり、男性の先生が一見いい人に見えて、どこか危うさを持っていたり。
辻村 あのあたりは私が考えなくても作中の大人たちが勝手に動いてくれました(笑)。あの頃のお母さん世代は、言語化はできないまでも、女性の自立についてもがいていたんだろうと、書きながら胸がちょっと苦しくなったり。男性の先生には、無意識のミソジニーみたいなものがあると気付いたり。みんなそうした未熟な部分があるけれど、だからといって「人間ってどうしようもない」という話にはしたくありませんでした。私にしては今回の話、意地悪な書き方じゃないと思うんですよ(笑)。これまでの私なら、もっとそれぞれの駄目なところを掘り下げて強調していたと思う。でも本作は登場人物全員に対して、どんなに純粋で聖なる理念を持っている人でも、人として踏み越えてしまうことはあるんだという前提の上で、それがいいことでも悪いことでもないというスタンスを崩さぬように書いていきました。
社会の価値観が変容したあとも、人の人生は続く
――ノリコが40歳になった現在、〈ミライの学校〉は規模を縮小しているようですね。
辻村 時代の流れは意識しながら書きました。現実ではオウム真理教の事件があって、そこからカルト的とされるものに対する視線や圧が厳しくなった。作中の〈ミライの学校〉でも、離れていった人たちがたくさんいました。今回描きたかったのは、その後の世界です。後から「あれは間違っていた」と言い出す元関係者もいますよね。でも、「あなたたちは簡単に評価を下すけれど、その中で育ってしまった子どもたちはどうすればよいのか」という問いについて考えたかった。後から「自分は実際にあの集団の中にいたから分かるけれど、あれは間違っていた」と語る人に対し、法子が心の中で「中にいない者には最初からわかっていた。中にいたせいでわからなくなっていたのはあなたの方だ」と思う場面が象徴的だと思います。さらに大きな話をすると、現実でも「この教育方法は間違っていたので教育要綱を全部変えます」みたいなことってありますよね。教育だけじゃなく、コロナ禍になってからさらにいろんなことがありましたけれど、「これが正解だと思うのでやります」といっても翌月には社会そのものが変わることってたくさんある。そして価値観が変容したあとの責任を誰が取るのかというと、誰も取らない。その時、間違っていたとレッテルを貼られた人は、その後も続く人生をどうしたらいいのか。そこに対する憤りみたいなものが、この話を書きたいと思った大きな理由かもしれません。
――大人になった法子は白骨死体が見つかったというニュースを見て、死体がミカではないかと不安になる。と同時に、世の中がいうほど〈ミライの学校〉は変なところでもなかったんじゃないかと感じます。
辻村 その一方で、夫からは「あそこにいたってあんまり言わないほうがいいんじゃない」と注意されたり、関係者からは「合宿に来ていたくらいで知った気になるな」と非難されたり。法子の中にもうっすらと「自分はイベントに参加しただけだから、あそこの人間じゃない」という気持ちがあるんですよね。「私は違う」という、相手に対して無意識に上から目線になっていることが浮き彫りになる。法子はそんな自分の気持ちとも闘うことになります。
自分が20代の頃だったら、大人の法子が、過去を「全部憶えている」、あるいは「全部忘れている」という、極端な描き方をしたんじゃないかという気がします。でも今回は、彼女が全てを憶えているとは限らず、記憶は恣意的なもので、むしろ読者の方が鮮明に物事が見えているかもしれない、というふうに描くことができました。そうした書き方ができるようになったのは、ずっと小説を書いてきて、読者を信じて恐れなくなったからだと思います。
――法子はある老夫婦から、白骨死体が孫のものではないかと相談され、調査のために〈ミライの学校〉の事務所を訪れる。プロローグではその場面が描かれているわけです。
辻村 その展開だけは最初から決めていました。自分にとっての美しい思い出が、同じ体験をした他人にとってはまた違う記憶になっているというのは、私自身もこれまでさんざん味わってきたことだし、誰しも経験があることだと思います。
――訪れた事務所で法子は、思いもよらない事実を知りますね。
辻村 自分だったら一番嫌だなという言葉を考えました。自分が大事に温めていた思い出を通じて、自分の中にあった無意識の傲慢さを突きつけられることになる。当初はこの場面こそがクライマックスになる予定だったのですが、そこまでたどり着いたら、ここは入口なんだと分かったんです。突き放された後で、今度は逃げずにその事実と向き合おうとするまでがこの小説なのかもしれない、と。