伊与原新『藍を継ぐ海』(新潮社)
「わからないこと」の価値
中学生の頃までは、チェスタトン、カーなどの海外ミステリや、クラーク、アシモフなどのSF作品を好んで読んでいた。内容はすんなり頭に入ってくるし、とにかく面白い。古典ミステリまで楽しめる自分に対しては、小説の“読み手”としての自信をそれなりに持っていた。
ところが、高校生になるとその自信は完全に打ち砕かれた。じっくり読書ができるのも今のうちだろうからと、古今東西のいわゆる“文豪”による作品を手に取るようになって、頭を抱えてしまうことが増えたのだ。
夏目漱石、森鴎外、川端康成、太宰治、三島由紀夫、ドストエフスキー、トルストイ、ヘッセ、カフカ、サン=テグジュペリ。大半の作品はそれなりに味わうことができた一方、中にはどうしても内容が理解できないというものもあった。
とくに深い挫折感を味わったのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とサン=テグジュペリの『人間の土地』である。『人間の土地』については、つかめそうでつかめないところが悔しくて、高校生の間に三回は読み返したと思う。
日本語の文章としては読めるのに、自分の知性では何が書いてあるのかわからない。そういう文学があるということが、私にはショックだった。
しかしその後大学に入り、学問の世界の入り口に立ったとき、「わからないこと」にこそ価値があるということを思い知った。教授たちの講義にしても専門の教科書にしても、一聴、一読するだけではまったく理解できない。人類がこれまで積み上げてきた知識はそれほどまでに深いという事実に私は感動し、学問への憧れを強くした。
あらゆる場面で「わかりやすさ」が重視されている時代だが、それに目眩(めくらま)しをされて簡単に「わかった気」になってはいけない。「わからないこと」をまずはそのまま受け止めて初めて、世界の広さと豊かさを感じることができる。そのためにも、若い皆さんにはぜひ少し背伸びをして、「わからないこと」だらけの読書体験をしていただきたいと切に願う。
(初出:「オール讀物」2025年7・8月号)
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