まず最初に結論を書く。『俺たちの箱根駅伝』は池井戸潤の最高傑作である。
それはなぜか、ということを書いてゆきたい。
本作は雑誌「週刊文春」の連載小説としてはじまった。二〇二一年十一月十一日号から二〇二三年六月十五日号までの約一年半にわたって掲載、二〇二四年四月に加筆修正のうえ上下二巻で刊行された。池井戸潤の小説が上下巻の単行本で出版されたのはこれがはじめてで、つまり本作は池井戸潤の最長の大作だ。
物語の舞台であり題材でもある「箱根駅伝」のことをご存じない読者は少ないだろう。正式名称、「東京箱根間往復大学駅伝競走」。毎年正月二日から三日にかけておこなわれるリレー形式の長距離走で、スタートは東京のどまんなか、大手町。そこから箱根までを五区間にわけて継走し、芦ノ湖で往路のフィニッシュとなる(陸上競技における「道路競走」の規則では、いわゆる「ゴール」のことを「フィニッシュ」と呼ぶ)。翌日も五区間に分けられた復路コースを走り、大手町でフィニッシュ。スタートからフィニッシュまで全十区間の総距離は、217.1キロメートルに及ぶ。
これを二十一チームが走る。前年の大会――「本選」と呼ぶ――の上位十校と、予選を勝ち抜いた十校で二十チーム。そして最後の二十一番目が「学生連合」と呼ばれる「関東学生連合チーム」で、これは予選で十一位以下になった大学から好成績者各校一名を選抜して編成される。予選敗退校から集められた選手から成る、いわば「敗者たちのチーム」であり――彼らこそが本作の主役である。
本書を楽しむ上で箱根駅伝の知識はこれで十分だ。それ以上のことは物語に巧みに織り込まれている。歴史も、予選のプロセスも、「学生連合」チームの選手の選び方も、すべて書いてある。だから「箱根駅伝」について何も知らなくても、物語を100%楽しむことができる。これが本作の第一の美点だ。
物語はふたつのパートから成っている。ひとつは学生連合のキャプテンを務めることになった明誠学院大学陸上競技部の青葉隼斗を中心とする「敗者たちの箱根駅伝」の物語。もうひとつが箱根駅伝を中継する「大日テレビ」のチーフ・プロデューサー、徳重亮らテレビ局員たちのドラマである。
さきほど「箱根駅伝を知らない人は少ない」と書いたが、それほどの知名度を誇るのは、この大レースが正月の二日間にわたってテレビ中継され、新年の風物詩としてお茶の間に浸透していることが大きな理由だろう。現実世界では「日本テレビ」によって放送されている箱根駅伝の中継だが、完全中継の歴史は意外に浅く一九八九年から。七九年から八六年まで放送していた東京12チャンネル(八一年にテレビ東京と改称)も、八七年から中継をするようになった日本テレビも、レースのすべてをリアルタイムで放送できてはいなかったのである。
完全中継を阻んだ最大の難関は、電波の届かない箱根山中だった。区間でいうと往路の第五区と復路の第六区にあたる。第五区はもっとも過酷な区間として知られ、海沿いの小田原から芦ノ湖まで、標高874メートルの最高地点を越え、箱根の山道を駆け上がらなければならない。この難関を当時のテレビマンたちがどう突破したのかという話は作中に書かれているから、ぜひ本編で楽しんでいただきたい。もっと詳しく知りたい方は『箱根駅伝を伝える テレビ初の挑戦』(原島由美子/文春文庫)をどうぞ。
そうした先人のつくりあげた番組の「魂」というべき理念や技術を受け継いで、大日テレビの徳重亮は、現場を仕切るチーフ・ディレクターの宮本菜月とともに、日本最大のスポーツ・コンテンツの準備を進めてゆく。
箱根駅伝をテーマにした小説は過去も例があるが、本書の手柄はランナーとテレビマンの二極を主役にした点にある。つまり「箱根駅伝」の持つ「スポーツ」と「コンテンツ」の両面へアプローチしたわけだが、これによって幾対ものコントラストが描かれることに注目したい。「走り」と「中継」という「静と動」のコントラスト。箱根駅伝の「インサイド」と「アウトサイド」。「若者」と「大人」。「学生」と「プロ」。これによって「箱根駅伝」が三次元的に描かれてゆく。これが本作の第二の美点である。
隼斗を中心とする学生連合チームの方の物語は、自分たちに背負わされた「敗者であるという事実」を乗り越えようとする物語だ。隼斗には重い自責の念がある。彼が予選会で不調だったがために、明誠学院大学は惜しくも敗退してしまった。監督の推薦で学生連合チームの一員となったものの、母校の仲間とのあいだには亀裂が残った。本選で結果を出すことで仲間に報いるしかない――そう隼斗は思い定めるが、チームを「敗者の寄せ集め」と侮る者は多く、メディアも彼らの敵に回る。
学生連合は、本選でどれほどの好走をみせても正式な記録が残されない。順位も「参考順位」ということでカウントされない。記録の残らない競技に何の意味があるのかというメンバーもいる。逆境のなかで、本選に臨めるチームをどうつくるのか、というのが上巻の山場である。さきほど学生連合チームの物語を「大人」と対を成す「若者」の物語だと書いたが、つまりこちらの物語は池井戸潤初の青春小説なのだ。大人のドラマとはまた違う苦しみをはらんだ青春小説としての面白さが、本作の第三の美点である。
では「大人」たちの方はどんなドラマか。じつは池井戸潤が本作の着想を得たのは、「箱根駅伝」という巨大なコンテンツの基礎をつくりあげた日本テレビのテレビマンたちとの出会いがキッカケだった。はじまりはこちらの方だったわけである。
スポーツ放送の理想というべき番組構成はどうやって形作られ、また維持されてきたのか。どれほどの数のひとたちが、どれほどの入念な準備をし、どれほどの神経を払って臨場感を演出しているのか。歴代のテレビマンのエピソードを織り込みながら、徳重の苦闘が描かれる。「番組をもっと派手にしろ」と横槍を入れるバラエティ出身の編成局長がいれば、目星をつけていた敏腕アナウンサーが病気療養に入ってしまうといった不測の事態も起きる。それをひとつひとつ徳重は乗り越えてゆく――芸能プロダクションの社長と渡り合い、役員会に乗り込み、マンションの理事長に頭を下げ、クセの強いアナウンサーを説得する。すべては自分の信じる番組をつくるためだ。
思えば池井戸潤の初期作品は、「お仕事小説」の先駆だった。『銀行狐』などの銀行ミステリは、ごく普通の企業の日常業務のなかにミステリやドラマを見出す視点があってこそ書かれうるもので、その視点こそが「お仕事小説」の種子である。つまり『俺たちの箱根駅伝』は、「お仕事小説」としても感動的なのだ。これが第四の美点である。お仕事小説としての『俺たちの箱根駅伝』の白眉は本選がスタートしてから。本書最高の名脇役・辛島アナウンサーの実況は全読者必泣だし、カメラの冷静な切り替えで「箱根駅伝」という物語を演出してみせる宮本菜月の姿は職業人のカッコよさの極致である。
大人と若者ふたつのドラマが合流するのは下巻冒頭、箱根駅伝のスタート地点。「本選まで」と「本選から」という美しい二部構成になっているわけである。そして権謀術数の張り巡らされた複雑な上巻から一転、下巻のプロットはこれ以上ないほどシンプルなものになる――
大手町から芦ノ湖まで行って戻ってくる。それだけ。
これが本作の第五にして最大の美点である。
そもそもA地点からB地点に走るだけの話が小説になるのか? 神奈川新聞のインタビューで池井戸潤自身が、「選手の表情や動きをリアルに伝える映像にはとうてい勝てない」と言っているのである。しかし、この発言には続きがあることに注意。「ただ、映像は心の内面を収めることはできない。それができるのは小説なんです」
第一区から第十区まで、学生連合の選手が走り出すや、池井戸潤は各選手の物語を語りはじめる。上巻にも彼らは登場していたのだが、池井戸潤は彼らの描写を一筆書きのようなスケッチにとどめていた。それはこのためだったのだ。彼らのドラマは晴れの舞台で明かされる。ここで選手たちの肖像が鮮やかに浮かび上がるのだ。まるで鉛筆による素描が、色彩豊かで立体的な油彩画に変じるように。
小説にしかできないこと。小説だからできること。それが217.1キロメートルにわたって惜しみなく投入される。そう、ここには十本の短編青春小説が連ねられているのだ。どんなところで育ったか。なぜ「箱根」を志したのか。何が得意で何が苦手か。どんな親がいたのか。あるいはいなかったのか。「箱根」のあとも競技を続けるのか。それともこれが最後の走りなのか。目の前のライバルを抜けるか。足の痛みに耐えられるか。自分に才能はあるのか。走りきれるか。勝てるか。
路面を打つシューズのビートに合わせ、心理描写が躍動する。職業人の白熱のドラマを横糸にして、十本の青春小説が継走する。これを実現できたのは、シンプルきわまりないプロットを選択した池井戸潤の勇気の賜物である。スタートからフィニッシュまで――この迷いようのない一本の道。たくさんの物語を搭載しつつもスムーズな読み心地を持つ「物語の森」は、この器のシンプルさがあってこそ実現したのだ。
これまでの池井戸潤の小説は、本作でいえば上巻のような複雑な構図を背景に置き、無駄を徹底して削り込んだ筋肉質のものだった。それが近年、変化の兆しをみせている。『下町ロケット ヤタガラス』(文春文庫)の解説でも触れたが、現在の池井戸潤は「第三期」と呼ぶべきフェイズにある。銀行ミステリを中心とした第一期、直木賞を受賞して人気作家へと駆け上がる第二期、それにつづく第三期である。第二期のような筋肉質のタイトさを目指すのではなく、むしろ体脂肪率を敢えて上げて、物語に弾力やふくらみを持たせた、といえばいいか。例えば『ハヤブサ消防団』『ハヤブサ消防団 森へつづく道』の連作では、ゆったりした自然描写や登場人物のユーモラスなやりとりといった「遊び」がみられ、のびやかさを増している。つまりは円熟である。
池井戸潤はさりげなく技巧を駆使する小説家なので、本作でも繊細な技巧が発揮されてはいる(例えば監督・甲斐真人の内面描写がまったくないことに注意)。しかし読む者がまっさきに感知するのは技巧への感心ではなく、あたたかくまっすぐに届けられる感動の方だ。それが第三期の池井戸潤であり、本作はその最初の達成である。
池井戸潤はこれまで一貫して、「夢」と「現実」の戦いを描いてきた。〈下町ロケット〉シリーズがその最たるものであり、〈半沢直樹〉シリーズや『陸王』も、突きつめれば夢と現実の戦いの物語だ。そこは本書も変わらない。
「夢」は「現実」に勝てるのか? 池井戸潤はそれをずっと考えつづけ、書きつづけてきた。勝てるとしたら、「夢」は「現実」にどれほど勝てるのか?
その答えを、私たちは大手町のフィニッシュで目にする。それは長い道行きの果ての万感あふれるフィニッシュだ。だが「フィニッシュ」という言葉とは裏腹に、それはすべてが終わる「結末」ではない。ラスト二行を見よ。「夢」は未来に引き継がれる。
フィニッシュは次のフィニッシュへのスタートラインなのである。
選手たちにとっても。そして第三期に入った池井戸潤という小説家にとっても。
さて、「箱根駅伝」を中継する大日テレビならぬ日本テレビによって『俺たちの箱根駅伝』がドラマ化され、二〇二六年十月から放映されることが決定している。本稿執筆時点ではまだキャスティングについての情報があるのみだが、これまで池井戸作品の映像化は、つねにしっかりとした演出と演技による質の高さを保ってきた。まして現実の箱根駅伝を取材し、中継しつづけてきた局によるドラマ化である。期待はふくらむ。小説とは違ったかたちで描かれる身体の躍動には、また別の説得力があるはずだ。











