〈生まれたときから話題の人で、「哲明(のりあき)」という本名が決まるまでは父親(先代勘三郎)の気が変るたびに新聞が報じたし、もう二歳くらいから映画やグラビアに出ていたし、初舞台の『桃太郎』はお祭り騒ぎだった〉(関容子『勘三郎伝説』)
天成のスター、五代目中村勘九郎、のちの十八代目中村勘三郎は、父が十七代目勘三郎、母方の祖父が六代目尾上菊五郎という昭和の大看板二人の血統と芸統を引き継いだ。昭和三十年(一九五五年)、東京都に生まれる。天才子役は順調に成長し、父が没した翌年の平成元年(一九八九年)、歌舞伎座で初の座頭公演を成功させる。平成二年には、八月の恒例となる「納涼歌舞伎」を始め、爆発的な人気を得た。写真は平成四年の納涼歌舞伎で、『義経千本桜』に出演したときのものである。
平成六年からは渋谷・シアターコクーンでの「コクーン歌舞伎」に出演。平成十二年には浅草・隅田川畔や大阪城西の丸庭園、名古屋城二之丸広場などに仮設劇場を建てて江戸時代の芝居小屋の雰囲気を再現する「平成中村座」をスタートさせ、伝統とともに新しい歌舞伎の可能性を追求した。平成十七年には、十八代目勘三郎を襲名。浅草寺で行われたお練りには三万人の観衆が集まり、披露公演は延べ七十万人を動員した。
平成二十三年はじめに特発性両側性感音難聴で入院、休養するが、六月には舞台に復帰。そして十一月から翌平成二十四年五月二十八日まで、七ヶ月に及んだ平成中村座ロングラン公演を成功させた矢先――。
六月一日の定期健康診断で食道がんが発見される。七月二十七日に手術を受け、一時快方に向かうが、肺炎を発症し、十二月五日、天に召された。手術の九日前、長野・まつもと市民芸術館の『天日坊』に木曾義仲役でサプライズ出演したのが最後の舞台となった。歌舞伎座再開場に間に合わず、五十七歳での早すぎる死を惜しむ声は高い。
〈十二月十一日は密葬だった。/お棺に黒紋付の正装で横たわる中村屋の足が踏んでいるのは、新しい歌舞伎座の檜舞台の方形の板。誰よりも早くその板を踏めるように、ということは誰の思いつきだったのか。/出棺のとき、エアバズーカから発射された天使や鳩や銀杏や桜をかたどった白い紙吹雪が、牡丹雪のように舞い散った。/そんなステキなさよならを見ることになる日なんか、来ないほうがずっとよかった〉(同前『勘三郎伝説』)
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