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第7回 恐怖のエアロビ

第7回 恐怖のエアロビ

川上 未映子

 20回どころか、じつはまだ、例のエアロビ教室に入会すらしていないわたしだった。どころかエアロビのことなんて頭から完全に消え去ってかけらも残っていなかった。っていうか、どう考えても無理でしょう。つわりで何もかもが無茶苦茶だったこの数ヶ月、仕事するのもやっとだったのに、とてもじゃないけど踊るなんてそんなこと人間には不可能、っていうか、エアロビのことなんて、わたしはこの数ヶ月のあいだ一度だって思いだしたことなんて正直言ってまじでなかった。

 正直に。そう、訊かれたとことに、わたしはただ正直にそう言えばよかったのだけれど……しかしこの診察室という聖域というか特殊空間には圧倒的な主従めいた力学が働いていて、そんな脳天気な本当のこと、口が裂けても言える雰囲気じゃなかったの。

「エアロビ? あ、全然忘れてましたすみませーん、てへっ」なんてことは、絶対にどんなことがあっても言えない雰囲気を、院長はもわもわに醸しだしていたのだった。

 彼は、男性なのか女性なのかもうわからない、性別を優に超えたこれまた圧倒的な存在感で目の前に座り、何よりもわたしの体のなかから新しい命をとりだしてくれる予定の、この世界にたったひとりの先生なのだ。そんな先生が、口をひらくや否やわたしに訊いたのは「体調はどうですか」でも「気分はどうですか」でもなく「エアロビ何回目?」なのだ。このことから、<院長の考える出産=院長の人生>にとって、何よりも重要かつ優先されるべきものは、どこまでも本気のエアロビそれ以外のものでは断じてない、という気迫というか事実であって、その重さがどわんと伝わり、そんな先生を目の前にしてエアロビのことなんて完全に忘れてた、なんて、どんなことがあっても、絶対に言えなかった。


 嘘はあかん。嘘はあかんよ。わたしは高速で自分に言いきかせ、何よりもエアロビ教室とこの診察室は連携関係にあるのだから、そのとき逃れの適当なことをでっちあげたところですぐにバレてしまうのである。この窮地をミガンはどうやって切り抜けたのだろう。にしてもあの子! エアロビ対策について何も言ってくれてなかったやないの……! とかいろいろなことが頭を駆け巡るなか、ふっと口をついてでた言い訳はこうだった。

「つ、つわりがひどくてですね、ついこないまで寝たきりの生活を過ごしていました」。これは嘘じゃない。っていうか事実。っていうか真理。「で、やっとこないだから、恢復しましてですね、それで……」。先生はうなずきもせず、わたしの目を高貴な鷹のような目でじいっとみつめたままだ。「まだ、こちらには登録というか、入会してないんですよね。あの、寝込んでいましたから。家で……」。ちらっちらっと先生の顔をみながら、かろうじて嘘はつかずに真実を述べたわたしは深呼吸をして、院長のリアクションを待った。すると院長はさっとにこやかな笑顔をつくって「……つわりもね、エアロビしてたら軽かったはずなんだよね」。えええええええええと叫びそうになったけど、でも、もちろん叫ばなかった。そ、そうですよねえ、と相づちを打つわたしに院長は「じゃあ、入会してね、これからでも間に合うから、とにかく踊って、汗かいてください」。は、はい……と返事をして、その日はお開きになったのだった(この場合は、お開きって言わないか)。

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きみは赤ちゃん
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