今村明恒は明治三年(一八七〇年)生まれ。東京帝国大学理科大学物理学科を卒業後、陸軍士官学校の教官になり、東京帝国大学助教授を兼任した。明治三十八年、雑誌「太陽」に「市街地に於ける生命及財産に対する地震の損害を軽減する簡法」を発表。地震発生時の火災による甚大な被害を警告し、五十年以内に東京で「大地震に襲われることを覚悟しなくてはなるまい」と述べた。この記事が多大な反響を集めたため、世情に不安を煽ることを危惧した上司の大森房吉主任教授は、「今村の論文を否定するため進んで新聞に寄稿し、講演会をひらいて、今村の地震予知説を激しく非難した」(吉村昭『関東大震災』文春文庫)。
大正十二年(一九二三年)、関東大震災が起り、今村は一躍名声を高めた。大森没後、今村は東京帝国大学に設立された地震学科の主任教授となった。
東日本大地震で、津波の被害地東北において、復興計画の中に高台に居住地を移転させる案が出されているが、
〈三陸地方の沿岸の家家を、高所に移転させよという提案は、じつはすでに死者三千人、流失家屋五千戸に及んだ昭和八年(一九三三年)の大津波の直後からあった。提案したのは「地震博士」として有名な今村明恒・前東京帝大教授で、漁村の住民の反対者には「全てを高地に移せというのではない。住居を高い所に移して、漁業に必要な納屋、物置の類は元の屋敷におけばよいのだ」と力説した〉(長部日出雄「新紙ヒコーキ通信」オール讀物平成二十三年=二〇一一年五月号より〉
昭和二十三年没。