意外なことに、桜庭一樹にとって初の短編集なのだという。なるほど、考えてみれば、桜庭一樹と言えば、『赤朽葉家の伝説』や『ファミリーポートレイト』、『伏 贋作・里見八犬伝』といった大長編の印象が強い。本1冊をフルに使って、読者をその世界に没入させる作家とでも言おうか。
加えて、近年、出版業界では、しばしば「短編集は売れない」というボヤキが聞こえてくる。そんなご時世に「桜庭一樹短編集」というストレートなタイトルである。勇気があるなと思った。満を持して、自信を持って編んだという力の入り方(それは作者が、というより編集者の思いかも知れない)にまず惹かれた。
収録されている作品は期待に違わず粒ぞろいである。しかも、初出は2006年から2012年までと幅広く、ほぼ年代順に並べられている。巻末に作者自身の解題が付されていることもあり、「小説家・桜庭一樹」の歩みを振り返ることができる。桜庭の作品を長く読んできた読者にとっては感慨深いだろうし、初めて桜庭の作品を手に取る読者にとっては、彼女の作品世界の特徴をつかむうえで、最初の1冊にふさわしいものになっていると思う。
いま、「彼女」と書いたが、桜庭一樹は女性作家である。小説をよく読む方にとっては常識だろうが、そうでない方には驚きかもしれない。作品のなかでも、ペンネーム同様、男女のセクシャリティを混乱させる仕掛けを使うことがままあり、こちらの先入観をくつがえす。
桜庭一樹は1971年、島根県生まれ。ティーン向けのライトノベルでデビューした後、大人向けの作品に転ずる。ライトノベルでも「GOSICK―ゴシック―」というヒットシリーズがあるのだが、この短編集を読めば、彼女の本領が大人向けの小説にあることがわかる。大人が子どもに対して隠したがる性愛や、インモラルな行為に踏み込むことを恐れないからだ。2008年に直木賞を受賞した『私の男』も、養父と娘の性愛と殺人事件を描いて、濃厚な味わいを持っていた。
この短編集はそうした桜庭作品のエッセンスが詰まっている。たとえば、最初に収められている「このたびはとんだことで」。不倫男の視点から妻と愛人の攻防が描かれるのだが、男は不倫が悪いことだとは露ほども思っていない。しかし、その気楽な調子とは裏腹に、眼前の世界がどんどん壊れていく。実に恐ろしい。
語り手の価値観が一般読者とズレているという設定は、桜庭一樹の作品にしばしばあることで、たとえば、「モコ&猫」の主人公。大学生の「ぼく」は「胡麻油の瓶のような」不細工な女の子、モコを見つめることにひたすら執着する。「ぼく」がモコに対して独特な性的魅力の感じ方をしているがゆえなのだが、その理由がよくわからない。わからないが、どことなく愛嬌があって、憎めない。
「ぼく」のモコへの思いは少々変わってはいるが、反社会的とまではいいえない。周囲の人に気づかれないほど、ほんのわずかハミ出ている。だから見過ごされやすい。こうした個人的なズレはたいていは話題にものぼらないものだが、桜庭は小説にしてしまう。
私はこれまでに何度か彼女にインタビューしているが、この作品を読んだときに思い出したのが、直木賞を受賞した『私の男』についてのインタビュー(「楽天ブックス」[2008年2月21日])で語っていたことだ。「これまで言葉にされたことがないことってあると思うんです。男女の間でも、家族の間でも。」
彼女はこのとき『私の男』について語っていたのだが、それはこの「モコ&猫」にも、この短編集に収録されている「冬の牡丹」にも通じるだろう。
また、ほかの短編も、桜庭の長編作品へと水路が通じている。「青年のための推理クラブ」は、カソリック系の女学園で起きたできごとを年代記風に描いた連作構造の長編『青年のための読書クラブ』の「パイロット版」とのことだが、これ1作で独立しており、あざやかなどんでん返しもある。また、「五月雨」は、少女猟師が犬と人間の間に生まれた「伏」を追う長編小説『伏 贋作・里見八犬伝』の先触れのような哀しくも愛しい短編。そして、最後の1篇「赤い犬花」は見知らぬ土地に預けられた少年が、出会ったばかりの子どもと山に入っていく冒険譚であり、まだ単行本化されていない『Bamboo』へと続いている。
各短編を読み終えるごとに1つの世界が幕を閉じる。長編小説に、その世界に没頭する楽しみがあるとしたら、こちらはいくつもの物語を通じて、「桜庭一樹」の世界を出入りできる魅力がある。あなたはどの短編に惹かれるだろうか。