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第1回 陽性反応

きみは赤ちゃん

川上未映子

きみは赤ちゃん

川上未映子

くわしく
見る

 妊娠検査薬のさきっちょに尿をかけて、待つこと5分。

 おお……。うっすら、うっすらだけど、縦に青むらさきの線がうかびあがってきた。おお……。ふたたび声にならない安堵というか興奮がこみあげてきて、首のあたりがものすごくどきどきした。 

 この2週間ほど、ずーっと体が熱くて生理予定日がきても高温のままだったのは、やっぱり妊娠だったのか。だるかったのも、妊娠だったのか。太ったのも、妊娠だったのか。小説がうまく書けなかったのも、部屋がいっこうに片づかないのも、服がどんどん増えていくのも、妊娠だったのか……いや、わたし妊娠したのか。すごいな基礎体温。体にもちゃんと摂理みたいなものがあって、それがくっきり目にみえた感じがした。
 

 とはいえ、それはあくまで簡易検査の結果でしかないのであって、産婦人科へ行ってちゃんと妊娠しているかどうかを確認してもらわないといけない。あべちゃんと(夫です)激こみの産婦人科にでかけてゆき、じつに3時間じりじりと待ちつづけ、診察室にとおされると女性の初老のやさしい先生が「いるかなっ、いるかな〜っ」と言いながら、あちこち探してくれるのをモニターで、はらはらしながら一緒に確認すること数分。

「あっ! いたっ!」と先生が叫んだので、「どこですかっ!」と思わずわたしも叫んでしまった。

 それはなんか、どこからどうみても黒い点というか、小さなまるでしかないのだけれど、「いますいます!」という先生のあかるい声をきいたその瞬間に、いきなりぶわっと涙がでてきてしまった。「おったですか!」と何度も言いながら、モニターをみつめてみると、もっと涙がでてきてこまった。命とか誕生とかそういうのじゃないんだけれど、なんか、これまで自分が知らなかった感情の、もっと知らなかった部分をどん! とつかれて、世界がぐらっとゆれて、やっぱりこれまで知らなかった場所に、ぽんとでたような、そんな感じがしたのだった。そしてそこがものすごくあかるい場所だった、ということに、とても驚いたのだとも思う。
 

 

 子どもをつくろう、と思って3ヶ月。

 

 これまで基礎体温をつけたこともなければ、妊娠にとりくんだこともなかったわたしだけれど、年齢はこのとき35歳。いろいろな偶然や、考えかたとの出会いがかさなって、子どもをつくることに決めた(これについてはのちのちくわしく!)。決めた、といっても、できることといえば、まずは避妊をやめること。それで1回、様子をみることにした。

 自分が妊娠するのかしないのかはまったくわからなかったけど、生理周期だけは昔からばっちりだったので、「排卵って、だいたいこれくらいかなあ」というあたりを狙ってやってみた。わたしとしてはものすごく思いきったこと、ものすんごいことをしたつもりだったのに、翌月になると「よお!」みたいないつもの感じで生理がやってきたので、「まじかよ」と、ちょっと焦った。

 それでスマートフォンに「基礎体温アプリ」を入れて、毎朝、細かいところまで測れる体温計を口に入れて記録していくことにしたのだけれど、これが精神的にずいぶん厄介なもので、少しでも体温が下がると気が気でなくなっていくのが自分でもこわかった。この1ヶ月でやみくもにつめこんだ妊娠への道のりというか、知識の中心にあるのは「とにかく体を冷やすな」ということ。意味がないとわかっていても、「いや、今朝のわたしはもっと高いはず……」とつぶやきながら、だらだらと何度もくりかえし検温してしまうのだ。そして少しでも高い数値を記入してほっとする……。デ、デイトレーダーって、もしかしたらこんな感じなのかもしれないとか思いつつ、折れ線グラフを凝視するのだけれど、2回目もまた、当然のような顔をしてあっけなく生理がやってきたので、今度はものすんごい焦ってしまった。

 この時点で、いろんなことを考えてしまう。

 たった2回のトライで何を言うかー! と思われるかもしれないけれど、でも、これがまじで焦るんである。だってこれが不妊治療のはじまりになるのかもしれず、そもそも自分が妊娠できるのかどうかもわからないわけだし、とにかく、「何もわかりようがない」という状況のすべてが、ものすごく不安にさせるのだ。

 何かを強烈に求めてしまうだけで、生活の中心が、こんなに簡単に、一変してしまうなんてなあ。

 なんか、自分がすごくゲンキンに思えていやだった。でもまあ、考えてみれば妊娠にかぎらず、人間っていうのは恋愛でも気になってしまえばなんでもそうなのかもしれなくて、そういうのをくりかえしてきたのだろうけど、でも数年前どころか数ヶ月前まではそんなに真剣に考えてもいなかったことに、こんなに頭も体も支配されて、こんなに神経質になってしまうなんてなあ。単純なことよのう。ああ、仕事もぜーんぜん手につかない。朝起きて、体温計を口に入れて、排卵日を逃すまいと、それだけに集中してしまう毎日。1日がとても長くて、夏なのに腹巻&分厚い靴下をはき、体温を測りつづける1ヶ月が、なんだか半年にも1年にも感じられるのだった。

 で、けっきょく3回目は、「排卵検査薬」というのを使うことにした。

 基礎体温だけじゃなくって、排卵日をダブルで特定してやろうという魂胆だ。だいたいこのあたりかなーという数日間、キットに尿をかけつづけて、陽性のしるしがでるとそこから24時間以内に排卵するぜと教えてくれるすごいやつ。

 そのしるしが出てからできるだけ多く性交すると確率があがるので、ものすごく忙しかったけれど、われわれはなんとかがんばった(そのキットでわかったのだけど、生理周期が28日と、ものすごく規則正しいわたしでも、排卵は予想より5日もずれておきていた。調べないままだったら、妊娠しなかっただろうと思う)。年齢のこともあるし、これで駄目ならちょっと婦人科に相談だな、と思って、並行して、それも調べる毎日。そこからの1ヶ月間がまたもや長く、ほんとに長く、毎日は、なんだかはっきりしない泥のようなあんばいだった。よくてもだめでも、結果が一刻も早く知りたくて、生理予定日を1週間は超えないと使っても意味のない妊娠検査薬を使いつづけるという、一部の妊娠待ちの女性のあいだではおなじみらしい、いわゆる「フライング地獄」にわたしもはまって、何本も無駄にしてしまった。

 体や、においや、いろいろなことやものを観察するのが好きで、いよいよ妊娠するかもしれないと睨んでいたこの1ヶ月は、気がついたことや変化についてじつにこまかく、いろいろなことをアプリに記録していた。

 妊娠は、卵子と精子がくっつくだけではだめで、くっついたそれがちゃんと子宮に着床しなければならない。くっついてから着床するまでに7日から12日かかる。そして着床するときに着床痛というのを感じる人もいるときいたとたん、わたしは連日ベッドに横になって、まるで瞑想者のように、体のすみずみにまで神経をみなぎらせて、着床するその瞬間を見極めようと必死になった。今から思うとほんとに頭おかしいなと思うんだけど、でもなんか、そうなっていた。そしてある夜(日記によると2011年9月10日、午後8時21分)──「ちくちく」とふともものつけ根ちょっとうえあたりに、はっきりとした痛みを感じたのだった。今のがうわさの着床痛かも! とわたしは声にだして感激し、すかさずアプリに「おなか、ちくちく」と書きこんだ。「これは、妊娠あるで……」という手応えがめらめらとめばえ、体温を測る毎朝の口にも力がみなぎった。そして生理予定日が近づいても体温は下がる気配をみせない(生理がはじまるときって、体温ががくんと下がるんです)。「こらきたかも!」と気分もあげあげで、結果、めでたく妊娠、とあいなったのであった。
 

 病院からの帰りみち、あべちゃんとあほみたいに「おったなー」「おったねー」「おったなー」「なー」みたいな会話をくりかえし、とても興奮していたので何を食べてどうやって帰ったのかも、あんまり覚えていない。

 黒いごまのような、影しかうつってないようなエコー写真のはしっこを指でつまんで何度もみつめ、はじまったなーというような気持ちだった。自分の性格を思うと、できたらできたで、ものすごく不安になって落ちこむのではないだろうかと想像していたけれど、あんがいそういうこともなく、適度に鈍く、なんだか妙に浮き足だっていた。しかし物心ついたときから物事の暗い面をさらに暗い色をした眼鏡ごしにみつめ、ネガティブさにかけては人後に落ちないという自負のある、いわばネガティブ・ネイティブたるわたしである。これまでの人生、まずはつねに最悪のシーンを想像し、明日は今日よりも悪くなるに決まっている、そしてよいことがあれば必ずわるいことが三倍返しでやってくるというサイクルを信じ、よくわからないけど魂のどこかをあきらめながらしずかに鍛えてきたという実績がある。いまはただ、はじめてのこと、待ち焦がれたことが叶ってちょっと気分もよく、ムード的にふわふわしてるだけで、基本的にこんなのっていっときの高揚感でしかなく、これが本当じゃ、ないのだよ。妊娠生活がどれくらい大変かというのは、まわりの経験者からもいやというほど聞いてきたし、この数ヶ月、そのような情報ばかりを浴びるように摂取してきたではないか。このいまのうれしい気持ち、ありがたい気持ち、ぽかぽかした気持ちはいっときのこと。これからさまざまなことがあるだろう。ものすごいネガティブ・リアリストとしていっそうに気をひきしめて、この1年を生き抜かねばならない。わたしはありとあらゆる最悪な出来事をことこまかに想定して、くる夜もくる夜も、あべちゃんに聞かせつづけた。あべちゃんは「頭がおかしくなる」と言っていたけど、少しでも面倒な顔をするとわたしの話はさらに長くなるので、最後は目を閉じて口を半分ひらいたまま無表情であいづちを打つだけの、なんかエジプトの壁画の人みたいになっていた。

 しかし……わたしは、そのときのわたしに笑顔で教えてあげたい。あんたの先取りネガティブさなんかまじでファンタジー。まったくぜんぜん、なめてるで、と。じっさいの妊娠生活は、わたしの想像をはるかに超えた、過酷かつ未知すぎるものだった。わたしの想像力なんか三段跳びでスキップして見えんくなったなーと思ったら脳髄に突き刺さってたわ、みたいな、そんな現実の天丼の日々が待ちうけているなんてそんなこと、黒いごまのような影をほくほくみつめるわたしには(あべちゃんも)、知るよしもなかったんである。

文春文庫
きみは赤ちゃん
川上未映子

定価:792円(税込)発売日:2017年05月10日

電子書籍
きみは赤ちゃん
川上未映子

発売日:2017年05月19日

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