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指揮者・岩城宏之の見習い時代の変名とは【没後10年、戦後日本を象徴する著名人】

指揮者・岩城宏之の見習い時代の変名とは【没後10年、戦後日本を象徴する著名人】

文・写真:「文藝春秋」写真資料部


ジャンル : #ノンフィクション

文藝春秋写真資料部が所蔵する写真を世相とともに紹介する「文春写真館」。6月には開始より8年を迎え、ロングラン連載となりました。これまでに公開した365点より、いまだ記憶に新しい没後10年を迎える人物を再掲いたします。本日は岩城宏之さん。

 昭和七年(一九三二年)、東京生まれ。父は大蔵省の役人だった。小学校時代は二年間で十カ月も学校を休むほど病弱で、戦争中は集団疎開にも行けずに、東京に残留した。敗戦後、父の転勤で岐阜県に転居し、旧制多治見中学に編入。ここで一年半ほど、野球一筋の生活を送り、健康を回復した。

 東京に戻り、学習院高等科卒業後、東京芸術大学音楽学部打楽器科に進学。山本直純と運命的な出会いを果たし、ふたりで学生オーケストラを結成する。また渡邉暁雄や斎藤秀雄の教室にも通い、指揮法を学んだ。

 在学中からNHK交響楽団指揮研究員、いわば指揮者見習いとなり、昭和二十九年、副指揮者になる。このころ、ラジオのポップスを指揮していたが、年間百回以上という膨大な数をこなし、本名で出演しづらくなり、「水木ひろし」といった変名を使うようになった。

 後に岩城は「棒ふりのカフェテラス」(文春文庫)でこう述懐している。

〈札幌のバーで飲んでいたら、誰かに尋ねられた。
「昔、水木ひろしという人の放送をいつもききました。大変にファンだったのですが、あの人はその後どうしたんですか。さっぱりききませんが」
こんなにうれしかったことはない。二メートルも三メートルもグラスを持ったまま跳びたかった。しかし静かに答えたのだ。
「さあ、どうしたんですかねえ。消えてしまいましたねえ。とても才能のある人だったんですが、惜しいですねえ」〉

 昭和三十五年、楽団の世界一周演奏旅行でヨーロッパ・デビューを果たす。昭和四十五年、日本万国博覧会開会式でN響を指揮する栄誉を担う。昭和五十二年、日本人として初めて、ウィーン・フィルの定期演奏会で指揮する。以来、世界のトップ・オーケストラを指揮し続け、一年の半分以上を海外で暮らした。晩年は、ベートーヴェンの全交響曲を一人で連続して指揮し、周囲を驚かせた。音楽活動以外にも、洒脱な文章で、数々のエッセイを書き続けファンを喜ばせた。写真は平成十四年(二〇〇二年)撮影。平成十八年没。

2014年3月17日公開

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