大正十三年(一九二四年)、東京・麹町生まれ。宝塚歌劇団二十六期生の同期には、月丘夢路、乙羽信子らがいた。男役のトップスターとなり、昭和二十六年(一九五一年)の退団後はミュージカルの舞台や映画女優、そしてシャンソン歌手として活躍した。特に、岩谷時子が越路のために訳詞した「愛の賛歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」といった名曲の歌声が国民的人気を博し、シャンソンの女王と呼ばれた。
面倒見がよく、多くの芸能人に慕われた。昭和三十四年に作曲家の内藤法美と結婚。以後、主婦として、どんなに忙しくても家事はすべて仕切った。掃除の腕前は素晴らしかったという。楽しげに洗濯物を干す写真は昭和四十四年。
昭和四十四年以来、日生劇場で毎年春秋二回、一カ月のロングランリサイタルを続け、常に客席を一杯にした。とはいえ、ステージに上がる際は極度の緊張に襲われる繊細さを持ち、いつも煙草と珈琲が手放せなかったともいう。家事は、そうした重圧から解放される時だったのかもしれない。
昭和五十五年、舞台出演中に激しい胃痛を訴えて入院、胃を切除する手術を受ける。末期の胃癌だった。入退院を繰り返し、リハビリに励むも、五十六歳で没。人気・実力ともに衰えぬなか、夫と友人に看取られ、世を去った。