ミステリーを書くとき、大事にしていることとは?
――そういえば、『Iの悲劇』は二十三作目の作品ですよね。以前、十作目までは意識的に学園ミステリーを中心に執筆し、十一作目で『儚い羊たちの祝宴』というまた違う読み味の連作集を発表してシフトチェンジされましたよね。二十作目前後でそういうことは考えましたか。
米澤 はい。『満願』ですね。
――ああ、米澤さんにとって初の、一篇一篇が独立した話になっている短篇集でしたね。内容も素晴らしく、山本周五郎賞も受賞されました。
米澤 表題作の「満願」を最初に書いたのですが、その掲載と『Iの悲劇』の第一章の「軽い雨」の掲載がほぼ同時期なんです。当時、それぞれの編集者から、すごく嬉しいお言葉をいただきました。細かい言い回しは違いますが、「今、正統派のミステリーの短篇というのがなかなか書かれないようになってきている。でもあなたは、そういうものが書ける」とおっしゃっていただきました。それはたぶん、私が泡坂妻夫や連城三紀彦が好きで、そこにミステリー短篇集の美学みたいなものを見出していたからではないかなと思います。
――それが九年前。ようやく完成した作品ですよね、『Iの悲劇』は。
米澤 せっかく「作家の書き出し」というテーマのインタビューなのでお話ししますと、観山と西野は、実は私が学生時代に書いた小説に出たキャラクターなんです。別の話で公務員ものを書いていて、それは実力不足で完結しませんでした。その時の登場人物たちがこうして形を得てよかったなと思っています。
――米澤さんはデビュー前に、ネットにショートショートを発表していましたよね。その頃ですか?
米澤 はい。当時はショートショートだけでなく、長篇もいろんなものを書いていまして、この二人が登場する話は、伝奇ものに近かったです。
――その頃はいろんなジャンルの小説を書いていたんですよね。そのなかで、ミステリーが自分に合っていると思われたというお話を以前うかがいましたが、なぜそのように思われたのですか。
米澤 うーん……。テクニカルな話なんですけれど、私はその頃から伏線回収を細かくやるのがわりと得意だと思っていたんです。自分自身、理が通る形で話が最後になだれ込むものが好きでした。小説というのは、説明がつくことだけで構成するとつまらないことがある。どこかに人生のままならなさが表れないと、都合のよいことばかりが起きただけの話になってしまう。ところがミステリーというのは自明のものとして理で構成されていく。その感じが自分の書き方に合うと思いました。もっとも、理だけではミステリーも痩せてしまう、そこが面白いところなんですが。
――魅力的な謎やトリックを考えて、それを読者にフェアな小説として書くことって、ものすごく難しいと思うんです。でも、最初からわりと自然に書けましたか?
米澤 それはある程度できていたとは思います。学生時代にミステリーを書き始めた時から、ミステリーというのは構造美であると思っていました。展開の美しさと納得、そして余詰めのなさである、と。余詰めというのは、別解答のことですね。ここにミステリーの要素として何が含まれていないかというと、サプライズなんです。びっくりしたとか、騙されたとかいうことは、自分が書くミステリーでは本質とはしない、というふうに考えていました。だから読者を騙してやろう、とは一度も考えたことがなくて。この出来事を解明する、その手続きの積み重ねが面白いんだ、と思って書いていました。そういう手続きを積み重ねるということは、普段からみんなやっていることですから、それほど特異なことではない。だから自然に書けた……と思っていたんですけれど、どうでしょうか。
――手続きを積み重ねることをやっているとしても、多くの人は米澤さんほど突き詰めてはいないと思います。たとえば〈古典部〉シリーズの『いまさら翼といわれても』に、主人公の折木が書いた『走れメロス』の感想文が出てきますよね。「ここの部分がおかしいと思った」という指摘があって、「ああ確かに」と思いました。あの指摘は米澤さんご自身が気づかれたことだと思いますが、あそこまで考えた人が多いとは思えないです。
米澤 ああ、そういうことであれば、やはり自分はミステリーが性に合っているんでしょうね(笑)。
ミステリーで真相や犯人を当てるためにはまず、「こういう謎や疑問がある」という立問が必要ですよね。だから、立問ができるかどうかはミステリーを書くにあたって大事だなと思います。