「勝ち負け抗争」をいま描くことの意味
――新作の『灼熱』、圧倒されました。終戦後、ブラジルの日本移民たちの間で「日本は戦争に勝った」と信じる人が大勢出てきて、「負けた」と主張する人たちと対立した、いわゆる「勝ち負け抗争」がモチーフですね。信じるものの違いによって人々が分断されていく様子が、まさに今の日本の状況に重なりました。
葉真中 構想を編集者に話したのは、今から5年以上前のことです。当時からすでにSNSなどでのフェイクニュース拡散が問題になっていたので、現代的なテーマだとは思っていましたが、執筆中にさらに世相が深刻になりましたね。アメリカの大統領選をめぐる陰謀論やコロナに関するデマなどによって、市井の人々が分断されていくのを感じました。
――以前から勝ち負け抗争にはご興味があったのですか。
葉真中 私はブラジルにルーツはないし、勝ち負け抗争のこともなんとなく知っていた程度でした。関心を持ったきっかけは、2016年に荻上チキさんのラジオ番組『Session-22』で、勝ち負け抗争の特集をたまたま聞いたことです。そこで、後に僕もお目にかかることになる、日高徳一さんのインタビューが放送されていたんです。
日高さんは、ブラジル・サンパウロ州に住む日本移民で、敗戦後も日本の勝利を信じる「勝ち組(注:戦勝派とも呼ばれる)」の一人でした。彼は1946年6月、敗戦を受け入れよと呼びかける「負け組」の中心人物の元日本陸軍大佐を射殺、テロ実行犯として検挙されます。彼の来し方に衝撃を受けて、勝ち負け抗争について調べ始めました。
勝ち負け抗争についての資料は少ないんです。小説の題材としてもほとんど扱われてこなかった。自費出版に近い本が出ていたり、北杜夫さんの作品でちらっと触れられていたりはするのですが、私が把握した限りでは、いま入手しやすいもので勝ち負け抗争をテーマに据えた小説は1冊もなかった。
とはいえ、はじめは尻込みしていました。ブラジルについてほとんど何も知らないから、基本的な知識を得るだけでも相当苦労する。遠い将来、時間がある時にみっちり勉強してから取り組もうと考えていました。でも、新潮社の編集者が「今こそ取り組むべき作品だ」と背中を押してくれて。ものすごく分厚い『ブラジル日本移民百年史』全5冊など、入手が難しい資料も次々と届くんです。それで資料を読み込んでいくうちに、小説家として自分はこの歴史的事実から目を背けられないと思いました。勝ち負け抗争を扱った過去作品がないのであれば、自分がスタンダードを打ち立てる気概でやろうと、覚悟が決まりましたね。
当事者の切実さに寄り添う
――ブラジルに取材にも行かれたそうですね。
葉真中 コロナ禍が始まる前の2019年に行きました。担当編集の方が、サンパウロで発行されているブラジル日系人向けの日本語紙「ニッケイ新聞」の編集長に連絡してくれて、勝ち負け抗争に詳しい現地のジャーナリストを紹介してもらいました。しかも、日高さんをはじめとした、ご存命の当事者に直接お話をうかがえる機会もいただけたんです。
でもブラジル取材で一番緊張したのは渡航の準備中ですね。現地の事情に詳しい方から、強盗に遭った時の安全な金の渡し方を教わって。もし銃を抜くと思われたら先に撃たれるから気をつけろ、って真顔で言われましたから(笑)。
――小説の舞台となる、ブラジル農村部やサンパウロには行かれたのですか。
葉真中 サンパウロ州の郊外と、サンパウロ市の中心街を回りました。
市街地に住む日系人の方は、完全にブラジルの文化に馴染んだ生活をされていた。一方、農村部には「日本人会」という組織が残っていて。お年を召した方の中には日本語がペラペラの方もいらっしゃいました。
さらに人口が少ないエリアに行くと、大草原の中の一軒家で四世代前から生活されている日系移民の家族がいらっしゃって、そこにホームステイさせてもらいました。サンパウロでも都会ではあまり食べられない、ブラジル料理と日本料理をミックスしたような料理も食べさせてもらいました。作中にも登場しますが、味噌や醬油を使った伯和折衷料理で、当時の日本移民はまさにそういったものを食べていたようですね。泊めていただいたご家庭では、夕方になるとみんなでNHKの国際放送を見る。こうやって日々、ブラジルの地で「日本人」としての生活を営まれているんだとわかりましたね。
――本作の主人公の二人、勇とトキオが少年時代に出会い、やがて対立していくという流れはいつごろ出来たのですか。
葉真中 歴史的事実としての大きな対立をきちんと小説に落とし込めるような構成にすることは、ブラジルに行く前から決めていました。取材を進めるうちに、当事者の切実さに寄り添うためには、物語の構造はオーソドックスなものにした方が効果的かと思い、二人の友情を物語の軸にすることにしたんです。