違う世界の存在を教えてくれる人
——瞳子さんは暁海に、自分の人生は自分で選んでいいんだよ、と背中を押してくれますよね。そのためには経済的な基盤が大切だとか、自分で自分を養えることは武器になるなどと、ひとつひとつの言葉に説得力があって、本当にその通りだなと。すべての大人たちが子供の絶対的な敵ではないし、時に手を差し伸べてくれる人もいる。でもそんな大人もみな完璧じゃない、というところがまさにこの社会そのものだと感じられて、すごくよかったです。
凪良 若い時に、いまいる場所とは違う世界があることを教えてくれる人がいるのは大事ですよね。高校生の暁海がしんどい時に踏ん張れたのも、刺繡の仕事を始めてコツコツ積み上げられたのも、自立を促す瞳子さんの存在があったからだと思います。物語の中盤からは、彼らの高校の教師である北原先生がその役割を引き継ぎ、ふたりを引っ張っていくことになります。
——そう、問題の北原先生(笑)。シングル・ファーザーの彼は暁海たちにとってメンター的存在ですが、プロローグでの彼についての記述が、ずっと心にひっかかるんですよね……。
凪良 プロローグだけ読んだらひどい人ですよね。北原先生は、当初は物語上そこまで大事なキャラクターにする予定ではなかったんです。でも、書いているうちに私がどんどん北原先生という人を好きになっちゃって。途中で、もしかしたら櫂よりいい男なんじゃないのって、危機感をおぼえるほどでした(笑)。
——櫂は尚人と共にプロの漫画家としてデビューを果たし、東京へ移住しますね。一方、暁海は地元に残って就職しますが、この男性中心の古い体質の職場がもう、ひどくて……。生理休暇を申請するために毎月、生理期間を上長に申告しなくてはいけない、とか。いまだにそんなことあるのかと、愕然としました。
凪良 この〝福利厚生〟が、女性社員の身体を労る「善意」から生まれたってところが嫌ですよね。この小説は恋愛を軸にしながらも、そういう気持ちの悪い勘違いとか、社会で生きるうえで感じざるを得ない違和感も忍び込ませているつもりです。
——離れて暮らしているということもあって、櫂も暁海のそうした状況を理解することができませんよね。彼は暁海との結婚も考えているようですが、お互いの母親のことが障害となり、なかなかうまく進まない。
凪良 櫂は結婚するならば、彼女の親も自分が面倒を見なくてはと思っている。男の人にかけられている呪いとでも言いましょうか。そういう、周囲の大人たちが持っていた古い価値観から自由になれていないんです。
——その櫂に思いもよらない出来事が降りかかりますよね。その時の出版社の対応にはすごくリアリティがありました。櫂と尚人の担当編集者、植木さんのやるせなさが切ないというか……。今このインタビューに同席している編集者全員が深くうなずいていますが。
編集者A あれは全編集者が泣きますよ。あまりに切実で他人事じゃなかったです。
編集者K わかります。植木がしょんぼりしながら帰る場面で僕も泣きました。
編集者R 結局編集者としてどうするべきだったんだろうって、本を閉じてからも考えてしまって……。
凪良 当事者の編集さんに共感してもらえて、むちゃくちゃ嬉しいです(笑)。
——みなさん熱い(笑)。そうして櫂たちにも大きな転機が訪れますが、それに呼応するように、周囲の人たちも徐々に変わっていくところがすごくよかったです。
凪良 人間が変化していく過程を書くのは楽しいです。昔から長いスパンの物語を書くのが好きなのですが、それはどこかで人が成長する瞬間に立ち会えるからかもしれないですね。
「絆」に縛られる必要なんてない
——そのなかで、「互助会」という、従来の「恋愛」や「結婚」とはまた違った共同体の在り方も出てきますね。
凪良 恋愛の果てに結婚があるという考えから、もう少し解放されたいなと思ったんです。他人同士がともに生きるうえで、恋愛感情というのは必ずしも必要ではないですよね。ただ、現実問題として、結婚というシステムによって、ふたりの関係を法律的に守りやすくなるのも事実です。だからこそ、いわゆる「恋愛」を介在させずとも婚姻制度を利用してしまう、という選択肢もあるのではないかと考えました。
同時に、身内は助け合わねばという呪いからも、自由になってほしかった。家族といえども他人は自分の所有物ではないですし、やっぱり頼りすぎるのも頼られすぎるのもお互い辛いんじゃないかなって。書き上げてみてから気が付きましたが、私の小説はいつも、人は自由であるべきとか、「絆」に縛られる必要はない、といったところに辿り着きますね。
——ご自身で意識しているわけではないのにそうなるのですか?
凪良 いつも、書き始めるときには、テーマは特に考えていないんです。読書というのはどこまでいっても個人的な体験で、結局、読んでくださった方が何を感じるかが一番大切だと思っています。でも、そうは言いながらも、私はどのお話を書いていても、また結局ここに辿り着いてしまったなという瞬間が必ず訪れるんです。もう、抜け出せない迷宮みたいなものを感じています。
書くことは、心の奥底に手を伸ばすこと
——いや、すごく大切なことが書かれていると思います。以前、凪良さんにインタビューした時、山本文緒さんの『アカペラ』に収録された短篇「ネロリ」の、〈人生がきらきらしないように、明日に期待しすぎないように〉というフレーズがお好きだとおっしゃっていて、すごく共感したんです。ただ、凪良さんの作品には、繊細に光るきらめきを感じます。人生は辛いものだと安易に結論づけるのではなく、かすかな光を探るように筆を進めていらっしゃるなあと。
凪良 それはありますね。お話のラストで、読者さんたちを絶望に突き落として終わりたくはないんです。それは私自身が人生に絶望したくないという心の表れなのかもしれません。
本屋大賞をいただいた直後に『別冊文藝春秋』に寄稿したエッセイ(『別冊文藝春秋』20年9月号)にも、私にとって書くことは、自分を整理したり癒したりすることなのだと綴りました。私の心の奥底には泥の層のようなものがあって、小説を執筆するときは、いつもそこに手を突っ込んでいるような感覚があります。泥のなかにも玉があるはずだとまさぐると、泥がぱっと舞い上がって、心の中がぐわっと濁る。それでも、拾い上げたものが言葉になり、物語に生まれ変わる頃にはほんの少し泥の層が薄くなり、一部分だけでも浚えたような気がするんです。
——今って、いわゆる恋愛小説がなかなか読まれないといわれていますよね。恋の成就や結婚がハッピーエンド、という話では良しとされにくいというか。恋愛小説を書くこと自体を躊躇われる作家さんもいるなかで、こういうアプローチもあるんだな、と思いました。
凪良 まさに今おっしゃったように、男女の恋愛を描くことは時代に逆行している、といった空気を感じることもありますが、私はもっとこの世の中に恋愛小説が存在してほしいと思っています。男と女でも、男と男でも、女と女でも、それ以外の関係でも、人が相手を大事に思ったり、心と心が交わっていく過程を私は書きたいし、読みたい。「恋愛小説」と呼ばれるかどうかは、その関係に「恋愛」という名前が付けられるかどうかの差でしかないと思うんです。だからもう少し、作家が大手を振って恋愛小説に挑戦できる空気になるといいなと思います。