文庫本を顔に乗せて
少ない予算で本を買う高校時代の本選びは、おそらく今よりも真剣でした。書店内をさまよいつづける姿は、店員さんの目に怪しく映ったはずですが、これはもうしかたがない。
図書室のように「退屈だから本を返す」わけにはいかないので、こちらも必死になります。そんな日々のなか、ある日手に取った文庫本が、椎名誠さんの短編集『蚊』(新潮文庫)でした。「蚊」の一字が書かれた、謎めいた装丁に惹かれ、購入しました。
中学生のころはヘルマン・ヘッセが好きで、「小説とは青春や人生の悩みを神秘的に描くもの」と考えていましたが、「蚊」を読んで驚きました。アパートに住む独身の会社員が突然蚊の大群に襲われ、手ひどく刺されながらも、蚊取り線香や掃除機を使って懸命に抵抗したあげく、これといった解決も結末もなく終わるのです。池の前の公園のベンチに座って読み終えて、「なんだこれは」と思ったのを覚えています。意味不明でしたが、奇妙な力があり、同時にすがすがしいほど馬鹿らしくもあり、小説の自由さを教えられました。
文庫本は仰向けに寝転がったときに、顔の上に乗せるのにちょうどいいですね。日差しを防ぎ、紙とインクの匂いが心を落ち着けてくれます。落ちこぼれの昼寝には必須のアイテムです。落ちこぼれといえば、昨年こんなことがありました。直木賞に選ばれた直後に地元で、「高校時代は文芸部に所属」という僕についてのニュースが流れたのです。これは取材に応じた当時の担任の記憶違いを、そのままメディアが報じた結果でした。僕は本当に落ちこぼれだったので、担任はよく覚えていなかったのです。学校外の空手教室に通い、白帯で挫折――これが実態です。在籍していなかった文芸部の「名誉OB」になるのはまずいので、関係各所に事実を伝えました。
人生いろんなことが起こりますが、皆さんも文庫本を顔に乗せて昼寝をするくらいの余裕をもって、日々をすごしていきましょう。