『レス・ザン・ゼロ』と『アメリカン・サイコ』を20歳そこそこで書き上げ、アメリカ現代文学のアイコンとなったブレット・イーストン・エリス。最新長編『いくつもの鋭い破片』の日本版刊行を機に、翻訳者・品川亮氏がインタビューを敢行。エリスは、この畢生の大作について、青春時代について、そして近年の自分自身について語ってくれた。
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『いくつもの鋭い破片』は、2023年1月に本国で刊行された。ブレット・イーストン・エリスによるほぼ13年ぶりの新作だ。“LA”、“80年代”、“シリアル・キラー”といったキーワードに惹かれ、『アメリカン・サイコ』(1991年)を念頭に読みはじめてみると、読み味はまったく異なっていた。不穏な暴力の気配が、ストレートな1人称私小説、あるいは教養小説を巧みに牽引し、きわめてリーダビリティが高かったのだ。どこからどこまでが真実なのだろうか、と考えを巡らせる余裕もなくあっという間に読み終えた。これはエリス作品としてははじめての体験だった。
実のところ、しばらくのあいだブレット・イーストン・エリスのことはほとんど考えていなかった。個人的には、18年ぶりに購入したエリスの新刊でもあった(2005年に刊行された未訳の『LUNAR PARK』以来)。2014年に邦訳された前作『帝国のベッドルーム』は完全に見落としていた。とはいえ、2012年12月3日のあの有名な「うちに来いよコカイン持ってくるの忘れるな今すぐ」という謎めいた電報のようなツイートのイメージが頭の中には残っていたし、2019年のエッセイ集『WHITE』が炎上しているのもなんとなく横目では見ていた。
つまり、エリスはあいかわらずの“悪ガキ”なのだとばかり思い込んでいたので、どうやら取材を受けてくれそうだと聞いた瞬間には、時間どおりに現れるんだろうか? 虫の居所が悪くてぷいと立ち去ったりするんだろうか? と不安な疑問がいくつも浮かんだ。あえて素朴な質問を投げかければそれが呼び水となって言葉があふれてくるのか、はたまた素朴な質問など鼻で笑われておしまいになるのか……?
だがまもなくZoomを使ったリモート取材の段取りが整い、LA時間の午後4時、すなわち日本時間の午前9時からの“ミーティング”が穏当に設定された。リモートなのだからこちら側もそれぞれの居場所からつなぐというのがあたりまえのやり方なのだろうが、どうしてもLAの高級マンションにいる(であろう)あのエリスと、東京の片隅にある薄ら寒い自宅の書斎から画面越しではあっても対峙する気力が湧かなかった。
そこで、編集担当氏とともに会議室の大テーブルの端と端に緊張したまま腰を下ろしてぽつりぽつりとおしゃべりする仕儀となったわけだが、ある瞬間、すでにログインしてあった“ミーティングルーム”に一人の男性の姿がぼんやりと浮かび上がっていた。どことなくフィリップ・シーモア・ホフマンを彷彿とさせるその人物の背後にある臙脂色の壁には、黄昏の陽光が斜めに差し込んでいた。日本時間の9時数分過ぎのことだ。
一瞬ののち、その男性こそがエリスその人であることに気がついた。おそるおそる挨拶の言葉を投げかけると、エリスの口調は意外にも穏やかで、ゆったりとくつろいでいた。約束の時刻ぴったりに現れてくれたことに意表を突かれたわれわれもまた、たちまちのうちにエリスの語りのヴァイブスに乗せられていった。
書きはじめたのは1982年だった
これまでのエリス作品は(正確には『LUNAR PARK』を除いて)、どこまでも乾いていて感覚が麻痺したような、もしくは感覚も感情もどこか離れたところに置いてきたような視線と文体が特徴だった。ところが『いくつもの鋭い破片』は、前述のとおり湿った感情と動揺に満ちあふれており、ひとことで言えばとっつきやすい。作品の冒頭部に意表を突かれたのと同じことが、その日の取材の現場でも起こったのだった。もはやあえて質問のトーンを気にする必要はないように感じられた。それで素直に、この小説がどのようにして生まれたのか、その起源についてまずは尋ねてみた。
ブレット・イーストン・エリス(以下BEE) 書きはじめたのは、『レス・ザン・ゼロ』(1985年)に取り組んでいた1982年のことなんだ。文体も基本的にはその時から変わっていない。恐怖を浮きあがらせるためには最も有効な文体だからね。その頃の僕は、フィクションにもノンフィクションにも関心があって、LAの街のこととか身のまわりにいた友だちのことを書きたいと考えていた。ノンフィクションというのは、いわゆるニュー・ジャーナリズムのことだね。(作中でも言及される)ジョーン・ディディオンやノーマン・メイラーといった作家たちが、ジャーナリズム的な方法論を使って自分たち自身について書いていたことが念頭にあったんだ。
実際、1981年にはとにかくいろんなことが起こったし、僕は嘘つきだったし(笑)、僕にはたしかにガール・フレンドがいたし、間違ったことをたくさんしでかした。だから、そういうことを書き留めておきたいと考えた。でも長大な小説になることはわかっていたし、18歳の僕には手に負えなかった。それで長いあいだ放っておいた。ところが、それから40年近くの時間が流れた2020年になって不意に、どこからともなくこの小説がやってきた。4月のある月曜日に書きはじめて、木曜日にははじめの1章を書きあげていた。そうして16カ月後には脱稿した。小説というものは、生まれろと命じられて生まれてくるものではないということだね。
僕の小説はどれも「自伝」なんだ
BEE 失われたLAを記録しておきたいという気持ちも強かった。あの時期のLAを記録した作品はほかにはなかったからね。(この小説の舞台である)1981年というのは、70年代を抜け出したけれどもいわゆる80年代カルチャーははじまっていないという、ほんの短いあいだしか存在しなかった端境期にあたる。作中にも書いたけど、ファッションの観点で見ても、肩パッドとかマレットとかキッチュなものはまだなくて、みんなスタイリッシュでクールなかんじを目指していたし、音楽を含めてカルチャー全体が70年代を引きずっていた。
〈例の空間〉と呼ばれるナイトクラブは、僕が最初に書きはじめた時からこの作品に登場していた要素なんだけど、あれはあの時代を象徴するものだったと思う。ほんの2カ月かそこらでなくなってしまったんだけどね。たぶん街のいろんなところを転々としながら営業するタイプのクラブだったんだと思う。小説にあるとおり中は完全に真っ暗で、部屋ごとにテレビのモニターが置いてあって、MTVが流れていたのをおぼえているよ。そういうわけで僕としては、『いくつもの鋭い破片』は70年代の終わりについての小説だと言うほうがしっくりくる。『アメリカン・サイコ』は80年代の話だったし、『レス・ザン・ゼロ』もそうだ。だから、時系列で僕の作品を並べるとしたらこの作品がいちばん最初に来ることになるね。
“自伝は書かないの?”って訊かれることがあるんだけど、そういう時には、“もう9冊も書いてる”って答えることにしている(笑)。僕の小説はどれも自分の経験に基づいているし、そういう意味ではすべて自伝的だから。フィクションの中に真実を織り込んであるということだね。
マルホランド・ドライヴの暗い闇
『いくつもの鋭い破片』の主人公であるブレットは、マルホランド・ドライヴにある豪邸に住んでいる。両親は長期の旅行に出かけていて、通いのメイドがいるとはいえ、空っぽの家でほぼ一人暮らしをしていると言っていい。LAの地図を眺めてみると、マルホランド・ドライヴは丘の上を蛇行しながら東西に延びている。その北側には映画スタジオが並び、近年では映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの出身地でありかつその作品の特権的な舞台となってきたことでも知られるサン・ファーナンド・ヴァリーが広がっていて、主人公たちが通う私立のバックリー校はその北の縁のシャーマン・オークスに位置している。一方南側にはベヴァリー・ヒルズやウェスト・ハリウッドなどの街があり、そこにいたるまでの斜面をえぐる無数の峡谷の中には、1969年にシャロン・テイトが惨殺されたベネディクト・キャニオンもある。そうしたものすべてを見下ろす位置に、主人公はひとりぼっちで棲息していることになる。ことほど左様にこの小説は、マルホランド・ドライヴを軸にLAの街を見直す都市論として読んでみたい気にもさせる。
BEE みんなに訊かれることなんだけど、主人公の家は僕の友だちの家がモデルになってるんだ。実際の僕の家は、マルホランド・ドライヴからシャーマン・オークスのほうに少しだけ下ったところにあった。ただマルホランド・ドライヴには、いつでもどうしようもなく惹かれていたな。薄暗くて、林の中を蛇行しながらどこまでも延びていくあの不気味な雰囲気にね。ひとの精神は地形に規定されるものだから、そういう意味で、これはマルホランド・ドライヴやLAの街についての小説だと言うこともできるだろうね。
1981年のLAから失われたものは大きい。しばしばスプロール現象(都市が無計画に広がること)の象徴として語られる街だけど、かつてはビーチにも砂漠にも山にも40分あればラクに行けたからね。その後、とてつもない交通渋滞でそれどころではなくなったけど。バックリー校だってすっかり変わってしまった。あの頃のあそこは、今あるような姿じゃなかったんだ。もちろん、これはLAに限ったことではなくて、もっと広くこの世界から失われたものについての話なんだけど、僕にとっての世界はLAという街のかたちを取っていたということだね。
スティーヴン・キングには確かに影響を受けた
『いくつもの鋭い破片』には、映画版『シャイニング』公開当時の話が印象的に登場する。物語の発端、とも言える。原作小説をこよなく愛するブレットが過大な期待を胸に映画館へ出かけて行ってがっかりする一方、はじめて謎の転校生ロバートを見かけるのもその劇場でのことなのだ。そして小説家志望(というかまさに小説を書きつつある)ブレットは、1981年に刊行された『クージョ』を読んでいて、そのラストの大胆不敵さに感銘を受けたりもする(週間ベストセラー第1位として書店に並んでいるさまの描写もある)。
BEE 『シャイニング』を観に行ったというあのエピソードはほんとうの出来事で、ブレットが劇場で見かける転校生のロバート・マロリーというキャラクターも、1982年の段階からすでに作品に登場していた。映画を観てがっかりしたのも事実(笑)。僕は原作を愛しすぎていたからね。なのに映画版はいろんな意味で“違う”ものになっていた。もちろん、あれから何度も見直すうちにみんなが“すごい”と言う理由はわかってきたけど、いまだにあの映画をこわいと思ったことはないな。あれは恐怖映画というよりも“不幸な結婚”と“ダメな作家”、それから怒りに囚われた“アルコール依存症の父親”についてのダーク・コメディだと思っている。うちの父親もアルコール依存症ですさまじい怒りを爆発させる人間だったから、僕はそもそも機能不全家族のテーマに惹かれるところがあるんだけどね。
近過去から徐々に大過去へと移行していくこの作品の構造そのものが、『スタンド・バイ・ミー』や『IT』の冒頭部を思わせないだろうか。
BEE 『IT』に影響を受けたのはたしかだと思う。いや、これを書きはじめた当初、あれはまだ出ていなかったね。『スタンド・バイ・ミー』の入っている中篇集『恐怖の四季』は出ていたかな。作中には『クージョ』が出てくるけど、あの頃は『デッド・ゾーン』や『ファイアスターター』あたりも読んでいた。キングの新刊はリアルタイムで読んでいたよ。でもある時期からは追わなくなった。もう昔ほどにはキングが刺さってこなくなってね。ただ、すでに身体には染みついているから、もちろん影響はある。だいたい、『ザ・シャーズ(THE SHARDS)』(『いくつもの鋭い破片』の原題)なんていかにもキングっぽいだろ(笑)? 鋭い破片はこわいもんだよ、僕は尖った破片がこわいんだ。
とはいえ、エリスの特徴だった乾いた文体は、キングの饒舌体とは真逆のように感じられる。
BEE どうかな。実は影響は強いと思う。イタリック体の使い方とか、文章が途中で切れてポップ・ソングの歌詞が入ってきたりするところとか。でも、あの当時に『いくつもの鋭い破片』を書きあげていたとしたら、もっともっとスティーヴン・キングっぽい文体になっていたかもしれないな。
『アメリカン・サイコ』はとても笑える小説だと思う
この小説には、“曳き網使い(トローラー)”と呼ばれる魅力的なシリアル・キラーが登場する。これもまた当初から作品に登場していたものなのだろうか。
BEE そのとおり。“曳き網使い”の造形そのものは実在のシリアル・キラーを複数組み合わせて作りあげたものだけど、あれもまたこの小説では重要な要素だからね。あの時代のLAの寓話とも言える。主人公のブレットは、転校生のロバートがシリアル・キラーじゃないかと疑うだろ? 今の感覚からするとちょっと行きすぎな印象を与えるかもしれないけれど、あの頃は、友だちがシリアル・キラーなんじゃないか、という不安はとても自然なものだったんだ。とにかくそこいら中にシリアル・キラーがいたからね(笑)。
主人公ブレットは身のまわりで起こるありとあらゆることに不安をおぼえ、こわがる。そのせいで、ほとんどダーク・コメディのように可笑しく感じられてくる瞬間もある。言うまでもなく、ダーク・コメディの要素は、『アメリカン・サイコ』でも顕著だった。
BEE 『アメリカン・サイコ』はとても笑える小説だと思う。書きながらダーク・コメディを意識してもいたし。でも、『いくつもの鋭い破片』では意図していなかったな。僕にとっては可笑しいとは思えない題材なんだ。ただ、きみが言うように仄暗い可笑しさはたしかにあるし、そうなったのは、たぶん僕の頭がそういうふうにできているせいなんだと思うよ(笑)。
『アメリカン・サイコ』との共通点はもうひとつある。それは、ダーク・コメディの要素とも一体化しているのだが、いわゆる“信頼できない語り手”というものだ。
BEE たしかに、パトリック・ベイトマンもこの小説のブレットも“信頼できない語り手”ではあるけど、ふたりとも意図的に嘘をついているわけではない。ただし妄想癖はある。ナボコフ的な妄想にとらわれているんだね。彼らは彼らなりの真実を語っているんだけど、そこに妄想が混じってるっていう。ナボコフの小説を読んでいると、“あ、こいつちょっとおかしいんだな”と気づく瞬間があるだろう(笑)? あれがとてもスリリングで、僕は大好きなんだ。
いろいろな「空虚」を僕は描いてきた
“無感覚の美学”、“美しい無感覚”、“無感覚の感覚”といったぐあいに、『いくつもの鋭い破片』では“無感覚”という言葉が重要な意味を持っている。主人公ブレットが自作『レス・ザン・ゼロ』に封じ込めようとしているものでもあるし、彼の親友であるスーザンが体現しているものでもあって、そこでは“無感覚”が、“しあわせ”や“自由”と一体化したものとして語られたりもする。
BEE スーザンというキャラクターは文学的な装置だから、あの当時のバックリー校にああいう子が実在したということではないよ。“無感覚の感覚”と言うと矛盾しているようだけど、“無感覚”もまたひとつの感覚ではあるんだよね。だから、作中に出てくる〈キッズ・イン・アメリカ〉のキム・ワイルドは“無感覚の美学”で輝いていた。付け加えておくと、実際の僕は作中のブレットよりももう少し陽気なところのある人間だった。もちろん小説を書くような人間だからほかのクラスメイトとのあいだに距離があったことはあったんだけど、基本的にはパーティーが好きだったし(笑)。
“無感覚”にもつながる概念として、エリス作品ではしばしば“空っぽ”であることや、“なにもない”ということが描かれる。今回の作品でも、主人公の家は常に“あの空っぽの家”だ。“なにか重要なものの欠落”こそ、エリス作品の一貫したテーマであるようにも感じられる。
BEE そうかもしれないね。とはいえ、“空っぽ”であることにもいろんな種類がある。だから、作品によって異なる“空虚”を描いてきたんだと思う。『アメリカン・サイコ』なら資本主義/消費主義の空虚さを描いているし、『GLAMORAMA』(1998年)ではセレブリティの空虚さを描いている。そういう意味ではたしかに、“空虚感”のようなものを描いてきたとは言えるのかもしれないな。
小説を書くことは道楽なんだ
次の小説では、どんな“空虚”が描かれることになるのだろうか。そしていつわれわれは読めるのだろうか。
BEE どうかな。2010年からの10年間、僕は小説を書いてなかった。ハリウッドで実りはないけど金払いはいいという仕事をしていたからね。それなのにいきなり、2020年にこの小説がやって来た。繰り返しになるけど、小説というのは向こうからやって来るものなんだ。僕はそもそも自分のことを職業小説家だとは思っていないし、僕にとって小説を書くことは道楽なんだ。
ついこのあいだもエージェントから“新作はいつできるんですか?”と訊かれたので、“今のところその予定はない”って答えたら、“だって今はLAに住んでるわけじゃないですか。そこら中でイカレたパーティーが開かれてるでしょう、ひとだってバタバタ死んでるじゃないですか、ネタだらけでしょう!”って言うんだ。でも僕はもうイカレたパーティーなんて行かないんでね(笑)。とはいえ、もしかしたら小説は明日にでもやって来るかもしれない。それだけはなんとも言えない。
今はとにかく、『いくつもの鋭い破片』が日本でも出ることがうれしいし、売れてくれることを切に願っているよ。いや、売れなくてもいいや。出るだけで最高さ(笑)。
最近は料理番組ばかり見ているよ
エリスはかつて、それぞれの作品にはその時々の自分の痛みや怒りが反映されているという意味のことを語っていた。『いくつもの鋭い破片』からもおなじものは伝わってくる。ということは、今のエリスにはもはや怒りも痛みもないのだろうか、もしかしてしあわせな毎日というやつを送っているとでも言うのだろうか、とよけいな心配が湧いた。
BEE きみはいくつ? 僕はもう62なんだよ。きみもこの齢になればわかると思うけど、もう怒りみたいなもんはないんだよね(笑)。そもそも怒りたくもない。だから最近はテレビのニュースは見ないようにして、料理番組ばかり見てるよ。リラックスするためにね(笑)。
考えてみれば、2001年の911以降、“世界のたがが外れた”という言葉が決まり文句となって久しいわけだが、その“たが”は外れっぱなしなのではなくますます著しく外れ続けているというのは、しかもその状況にわれわれが慣れつつあるというのは、驚くべきことだ。そんな世界で暮らしながら、『レス・ザン・ゼロ』から『インフォーマーズ』(1994年)にいたるまでの初期作品に書き込まれた“無感覚”に触れなおしてみると、切実かつ皮肉な有効性がこれまで以上に高まっているように感じられた。
そんなことを最後に口走ると、「なるほどね。そうなのかもね」とエリスは苦笑交じりに答えて、ミーティング・ルームから退出していった。「実験小説のつもりで書いて初刷5000部だった『アメリカン・サイコ』がここまでになったわけだし、僕にはどんな仕組みでなにが起こってるのかはわからないね。わかったら教えてくれよ」と付け加えながら。
そういえば、90年代末のセレブ風俗を生々しく取り込んだ『GLAMORAMA』もまた、不定形のテロリスト集団と偏在するカメラが物語を牽引するという911以降の世界を予見したような作品だった。25年ほど前に読んで以来だが、今読み返すとどう感じるのだろうか。ちなみに、エリスがいちばん好きなスティーヴン・キング原作映画はブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』で、毎年見直しているそうだ。
ブレット・イーストン・エリス Bret Easton Ellis
1964年、アメリカ生まれ。1985年、『レス・ザン・ゼロ』でデビュー、同作はベストセラーとなり、新たな現代文学の旗手としてセンセーションを巻き起こす。1991年の第3長編『アメリカン・サイコ』は内容の過激さで議論を呼んだ。2023年、『帝国のベッドルーム』(2010年)以来となる長編小説『いくつもの鋭い破片』を発表する。
品川亮(しながわ・りょう)
1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。翻訳家、編集者、ライター。主な訳書にヴァネッサ・チャン『わたしたちが起こした嵐』(春秋社)、ウォルター・モズリイ『アントピア』(共和国)、著書に『〈帰国子女〉という日本人』(彩流社)、『366日 映画の名言』(三才ブックス)などがある。











