人生の岐路に立つ高校生の息子と、難病をわずらいながら我が子の希望ある明日を願うシングルマザー。複雑な想いを抱える親子の絆と揺るぎない愛を綴った映画『90メートル』(3月27日公開)が、「予告篇だけで泣けて仕方ない」「親子で絶対に観にいきたい」など、大きな話題を集めています。

 映画公開を記念して、監督・脚本を務めた中川駿さんによるノベライズ『90メートル』から、第一章「佑と美咲」冒頭12ページをお届けします!

 ぜひ映画と小説、合わせてお楽しみください。


第一章 佑と美咲

「『己の中の人間の心がすっかり消えて(しま)えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう』という李徴(りちよう)のセリフ、なぜ、この『しあわせ』という言葉に傍点がついて強調されているのか。本当は人間性の喪失によって得られる『しあわせ』はないと考える李徴の心の……」

 佐藤(さとう)先生の落ち着いたトーンの声は、子守歌のようだった。教科書とノートを開き、シャーペンを握りしめ、一応、授業に臨む姿勢は見せたものの、五十分の授業はうつらうつら舟をこいでいる間に終わっていた。おかげで、「山月記」の内容は男が虎になったということ以外、ほとんど分からずじまいだった。

 二学期が始まってもうしばらく経つ。

 秋が過ぎれば、受験はすぐそこだ。

 家でほとんど勉強できずにいるのだから、せめて、授業をしっかり受けようと思うのだが、最近ではほとんど睡眠時間になってしまっている。しかも、しっかりと寝られるわけでもなく、途切れ途切れだから、かえって寝足りない感じだけが残る。

 クラスの人間とやり取りするのも億劫(おつくう)で、(たすく)は休み時間もほとんど寝て過ごした。部活の友達とばかりつるんでいたから、そもそもクラスで仲良くしている人間もほとんどいない。そのことを今はよかったとすら思っている。誰かの話に合わせて笑ったり、(あい)(づち)を打ったりすることも気が重い。大体、自分には話せるようなこともないし、放課後一緒に遊ぶ時間もない。

 気を使って話しかけてくれるクラスメイトもいたが、言葉少なに対応していたら、やがて放っておいてくれるようになった。

 うとうととしているうちに、最後の授業もホームルームも終わり、佑はのろのろとバッグを肩にかけ、教室を出た。

 踊り場に差しかかったところで、佐藤先生に呼び止められた。

「最近どう? あまり寝られてない?」

「……まあ、はい、すいません」

 担任である佐藤先生は、佑の事情を知っている数少ない人物のひとりでもある。居眠りに目をつぶってくれていたのだと気付き、佑は小さな声で素直に謝った。

 女子生徒たちがはしゃいだ声を上げながら、階段を上ってくる。

 佐藤先生は少し周囲を気にするようなそぶりで、佑を窓際へと(うなが)すと、ぐっと声を(ひそ)めた。

「お母さんの調子、よくないのか」

「……まあ、変わらずって感じすね」

「そうか……何かもし困ってることとかあったら、相談してくれていいからな」

 いい先生なのだろうな、と思う。押しつけがましい感じもなく、大げさに同情するのでもなく、どれだけしらっとした反応を返しても、こうして手を差し出し続けてくれる。

「もう慣れたんで……大丈夫す」

 佑はぼそぼそと、しかし、きっぱりと告げた。佐藤先生はふうっと重い息を吐くと、それ以上しつこくは言わず、気を付けて帰れよと解放してくれた。

 今日は夕飯の買い物もない日だから、五時までには帰らなくてはならない。佑はぺこりと頭を下げると、足早に階段を下りた。

 

 校舎は既に放課後の音で満ちていた。

 三階の音楽室からは基礎練習を何度も何度も繰り返す管楽器の音が聞こえ、グラウンドからはうまく日本語として認識できない、野球部の掛け声が響いてくる。

 通り過ぎる教室からは、何が楽しいのか、絶えまなく笑い声があがっていた。

 放課後の音は、自分が部活をやっている時はまったく気にも留めなかった。

 ひとり家路を急ぐようになって、放課後はこんなに音に満ちているのかと気づかされた。

 こうしてにぎやかな音の中を歩いていると、自分が誰の目にも見えていないような、世界から認識されていないような、そんな気持ちになってくる。

 昇降口を出たところで、佑は一瞬ぎくりと体をこわばらせた。

 入り口でたむろしていたのは、バスケ部の部員たちだった。佑に気づいたのだろう、盛り上がっていた会話が一瞬しんと途絶えた。

 佑はうつむいて足を速める。会話は少しわざとらしいぐらい、何事もなかったかのように再開された。

 毎日飽きるほど顔を突き合わせていた仲間から向けられるぎこちない無関心。この一年、絶対に無理だと思うようなことにも慣れてきたけれど、こればかりは慣れる気がしなかった。

 佑はポケットに両手を突っ込んで、表情を殺し、足早に立ち去る。

 部員たちは佑から目をそらし、話し続けた。佑がいなくても楽しくやっているのだと突きつけるように、ことさら笑い声をあげる。

 そんな中、マネージャーの松田(まつだ)杏花(きようか)は佑をじっと目で追っていた。自分から世界を拒絶しているような佑の背中。もどかし気な表情を浮かべた杏花は、ふと視線を横に巡らせ、自分以外にもう一人だけ佑をじっと見ている人物に気づいた。大平(おおひら)翔太(しようた)。佑が抜けた後の大きな穴を誰よりも必死に埋めようと奮闘した元部長だった。

翔太は壁にもたれ、仲間たちの会話から少し距離をとるようにしている。翔太は杏花の視線に気づき、さっと佑から目を外す。

杏花は何か言わなければと、切迫した思いに駆られたが、結局どんな言葉も出てこなかった。翔太も何も言わない。

仲間たちの笑い声をぼんやりと耳に響かせながら、二人ともそれぞれの考えに沈んでいった。

 一定のペースで黙々と歩き続け、気づけばもう自宅はすぐそこだった。

 ぼうっとしていても、足を交互に動かしていれば、体は運ばれ、前へと進む。学校から自宅まで、決まったルートを無意識にとっているのは当たり前のようで、不思議だった。

 今日のこと、未来のこと、ついさっきのこと、頭の中は何を考えるにも足踏み状態で、乱暴にテレビをザッピングしているような状態だった。

 ジャンク品のような、どうしようもない思考の欠片(かけら)を振り払うように、ふうっと息を吐く。生け垣に囲まれた狭い庭を抜けて、物干し台に洗濯物が揺れているのを横目で確認しながら、玄関へと向かった。

 日中、玄関にはカギはかかっていない。カラカラと軽い引き戸を開けて、きちんと揃えられた女性ものの運動靴の隣に、無造作に靴を脱ぐ。上がり(がまち)の脇には、細長い本棚があり、()(さき)が集めた古いレシピ本が並んでいた。床の上こそ徹底して片付けてあるが、壁や棚には祖父母の残したものや、捨てられる機会を逃した雑多なものが溢れる古い家。子供のころから馴染(なじ)んだ光景だというのに、佑は家に入るたびに、この場所が確かに自分の育った家とは違うと感じる。特に、たくさんの人が出入りする一階部分は、空間の半分ぐらいが外の一部のような感覚だった。

 佑は真っ先に玄関の左手にある居間をのぞく。

 玄関から見る光景と違い、一歩入ってのぞき込む居間は、昔とはまったく様相が変わっていた。古い畳が敷かれていた床は、車椅子の移動のため、全てフローリングにリフォームされている。縁側に面した部屋の奥には大きな介護ベッドが置かれ、壁際には薬や介護用品が収納されたワゴンやケースなどが整然と並んでいる。それらは不自然なほど真新しく、古い家の中で少し浮き上がって見えた。

「あ、佑君、お帰り」

 介護ベッドの側に座って作業していたヘルパーの前原(まえはら)が、すぐに気づいて声をかけた。

「こんちは」

 佑は小さくぺこりと頭をさげると、介護ベッドの背あげ機能で上体を起こした美咲が「おかえり」とほほ笑んだ。

 ストローのささったプラスチックの軽いコップを大切なもののように両手で抱えて、少しくったりとした表情をしている。

「ちょうどさっきお風呂終わって、着替えたとこ」

「そうすか」

 今日は週一回の入浴訪問の日だった。看護師ともう一人ヘルパーがいたはずだが、浴槽や防水シートなどを片付けて、先に撤収したのだろう。

 よっぽど疲れたんだろうな、と佑は美咲の表情をまたちらりと確かめる。お風呂で温まったからか、顔色は悪くない。

「今晩、体拭きなしで大丈夫ですか?」

「だいじょうぶ」

 前原の問いに美咲はうなずいて、手にしていたコップを前原に預けた。

「ああ、すごい。結構飲みましたね」

 前原はコップの中身を確認し、ねぎらうように言う。

「あせかいたから」

 前原は美咲を担当するヘルパーの中で一番付き合いが長い。美咲とは年齢も近く、さっぱりとした気質が合うようで、いつも楽し気に話をしている。

 テレビやタブレットなども近くに置いていて、いつでも見られるようにはしているけれど、美咲はドラマや動画を見るよりも、誰かとちょっとしたやり取りをする方を好んだ。

 二人のやり取りをじっと見つめていた佑は口元をきゅっと結ぶと、「荷物置いてきます」と告げて、二階へ向かった。

 

 二階には二つの部屋がある。六畳ほどの小さい方が佑の部屋だ。シングルベッドと勉強机を置いたら、ほとんどスペースの残らない小さな部屋。それでも、小学生の時、自分の部屋にしてもらった時は、わくわくと胸がはずんだ。

 小学生の時ならともかく、身長も伸びた今となってはかなり窮屈な広さではある。

 祖父母が亡くなり、母が一階に移ったことで、広い方の部屋を使うこともできたのだが、今さらわざわざ物置のようになっている部屋を片付けて、移るつもりもなかった。

 寝る場所と、勉強できるスペースがあれば、それで十分だ。

 小さい頃は、お気に入りのキャラクターのフィギュアを置いたり、憧れのバスケットボール選手のポスターを飾ったり、自分の好きなものに囲まれていた。さらに母が勝手に、佑の工作や賞状などを飾ったりしたから、狭い部屋はごちゃごちゃとしていた。

 しかし、今の部屋は狭いながらにがらんとしている。

 ポスターもはがしたし、漫画や旅行の思い出の品なども使っていない広い部屋にまとめて押し込んでしまった。

 かつては確かに好きだったものが、いつしかノイズのように感じられ、囲まれていることに、精神がざらざらとけば立つ思いがした。だから、ひとつひとつ視界から遠ざけるように片付けていったのだ。

 部屋にはベッドと勉強机と勉強道具、最小限の衣服だけが残った。ただ一つの例外が、どうしても片付けられなかったバスケットボールだった。

 人が見れば、寂しい部屋だと思うのかもしれない。

 でも、今はこの部屋が何よりしっくりとくる。自分がかろうじて息をつくことができる場所だと感じる。

 母が見たら、きっと良かれと思って、勝手にあれこれと飾り立てるのだろう。家には母の刺繍(ししゆう)やらパッチワークやら、量産された、安いけれど感じのいい絵画やらがいたるところに飾られている。

 でも、母がこの部屋を見ることは、きっとない。

 バッグを放るように置いて、佑はふうっと息を()らした。

 これから、長い長い佑と美咲だけの時間が始まる。

 佑は気合を入れるように短く息を吐くと、前原のもとへと向かった。

 

「お昼はおうどん食べました」

 バッグを置いて下に降りると、もう前原は帰る時間だった。玄関横の小さな部屋で、共有ノートの記録を確認しながら、引継ぎをする。

 そこは昔、美咲の衣装部屋だった。ミシンや鏡台も置かれていて、学校へもっていくための巾着(きんちやく)をさっと作ってくれたり、出かける前に慌ただしく化粧する姿を、よく覚えている。

 鏡台が置かれていた机には、介護資料が並んでいる。この机を使って、ヘルパーの人たちは記録を付け、ヘルパー全員で美咲の変化を共有しているのだ。細かいことまで書き込まれた共有ノートはもう何冊も机に並べられている。

 この部屋を引継ぎに使うため、衣服や化粧道具などほとんどのものは二階の部屋に移された。

 それでも、美咲が飾った絵画やどこかの観光地で買った、山をかたどった木製の温度計など、美咲の部屋だった名残(なごり)はそこかしこにあって、机の上の事務的な雰囲気との違和感が、なんとなく、居ぬき物件を思わせた。

「あ、(めん)が長いと吸うのが大変みたいだったから、麺類はこれから少し短くして出してあげた方が」

「はい」

 前原がはきはきと事務的に告げてくれたことが有難かった。美咲が麺を吸うことが難しくなってきた、ということよりも、麺を短くする、という自分がすべきことに気持ちをフォーカスできる。

 佐藤先生に美咲のことを聞かれ、佑は「変わらず」と答えた。昨日の母と今日の母、実際ほとんど変わりはないように思える。しかし、共有ノートを見れば明らかなように、じわじわと確実に変化は訪れているのだった。

 最初にあったのも、ごく小さな違和感だった。佑が高校に入った頃から、美咲は肩がこるとしきりに言うようになった。ちょっとした段差で(つまず)くこともあったが、それが重大な病気の予兆であるなどと、美咲も佑も全く考えもしなかったのだ。

 美咲は疲れているのかもしれないと言っていた。実際、小さな食品会社の営業として働いていた美咲は、パートから社員に正式採用され、佑の目からも張り切っているように見えた。食べることもしゃべることも大好きな自分にとって天職だと、毎日楽しそうにしていた。

 その後、さすがにおかしいと感じて、病院に行ったが、はっきりとした診断が下るまでさらにしばらくかかった。

 ALS――筋萎縮性(きんいしゆくせい)側索(そくさく)硬化症(こうかしよう)。脳の命令を筋肉に伝えるための運動ニューロンが少しずつ壊れてしまう進行性の病気。それが最終的にくだった母の病名だった。

「あ、あと、お風呂があって洗濯が遅くなったんで、まだ乾いてないんじゃないかな。あとで取り込みだけお願いします」

 佑は外の洗濯物を頭に思い浮かべながら、小さく(うなず)いた。前原はじいっと真正面から佑の目を見ながら、「佑君から何かある? 気になることとか」と尋ねた。

「いや別に、大丈夫す」

 毎回前原から投げかけられる質問に、判で押したように同じ答えを返す。前原は手のかかる(おい)っ子でも見るように目を(とが)らせたが、仕方ないなあというように苦笑した。