高校のころに読んだ本
積極的に本を読みはじめたのは、ちょうど高校のころからでした。その前にも読むには読んでいたのですが、どちらかというと興味は音楽のほうにあって、作曲家になりたいと考えていました。
国語教育は苦手でした。教科書にあるような作品は私にはどうも教訓めいて感じられて、小説を通じて「正しい人間」になるための情操教育を受けている気にさせられたのでした。でも、私は正しくないままでいたかったし、それ以上に自由でありたかったので、いまひとつ乗れなかったというわけです。そういうこともあって、私の書く小説にはわかりやすい教訓や啓蒙がありません。
ただ、こんな話もあります。スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』という本によると、昔は、人の公開処刑といった残虐な娯楽があったのが、やがて数を減らしていった。その理由の一つが、小説の普及かもしれないというのです。つまり、小説を通じて他者の視点に立つ習慣がつき、共感が生まれ、残虐な娯楽が減ったのだと。もしそうならば、実際に小説には情操教育的なる機能があって、そしてそれはけっして軽視できるものではなく、私が反抗できたのは単に平和であったからなのかもしれません。
とまあ、そんな私を小説にひきこんだのはミステリの世界でした。部活の友達にひょいと渡されて、読んでみたらまんまとはまってしまった。綾辻行人さんの『十角館の殺人』あたりにはじまり、いわゆる新本格ミステリの有名どころをあたっていきました。ひょいと渡されたのがよかったのだと思います。絶対に読めと言われたなら、性格上、私は読まなかったに違いありません。
小説を書きはじめたのもこのころ。実際に自分が書いてみると、小説というもののいろいろな枠組みや技法が気になってくるものです。別のジャンルにも手を広げました。いま思い出せるのは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』ですとか、P・K・ディックの『ヴァリス』ですとか。高校の行き帰りの電車で毎日少しずつ読んだので、めちゃくちゃ時間がかかりました。内容はわかったようなわからないような感じでした。わかってなかった可能性が高いです。でもいいのです。とりあえず読んでいるその瞬間、私はエキサイトしていましたし、それもまた読書体験の一つの形であることは否定できないはず。要は、なんか楽しければなんだっていいんです。
「本を読め」というような啓蒙はしたくありません。なぜなら私は正しくないままでいたいし、それ以上に自由でありたいし、何にも増して、皆様に自由でいてほしいからです。興味の対象はなんでもいいと思います。ですが、もし皆様の道の途中に、楽しい本との出会いがひょいと生まれるならば、こんなに嬉しいことはありません。