路地や道路の脇にいる猫の写真、街角の風景をモノクロームで撮り続けてきた写真家の武田花さん。ある日、町を歩いている時、ふいに自分に飽きてしまったといいます。
「私って、いつも同じだ」
家に帰って布団をかぶって、ふて寝すること数日。武田さんは、カラー写真をやってみよう、と思い立ちました。
写真機も新しく買って、始めてみたら、びっくり。
「この世に氾濫する色という色が、目に飛び込んでくる。モノクロ写真ばかり撮っていた私にとっては一大事。大作戦が始まったのだ。」
――こうして始まった『ポップス大作戦』。武田さんの新しい世界を、すこしご紹介します。
天気は悪いし、頭はボーッとするし、このところ、あまり出歩いていない。退屈になってきた。
「どこぞの旅の空で退屈の虫が呼んでおるわ」、旗本退屈男の声が聞こえる。
明日、上天気なら、電車に乗って、どこぞに旅に出よう。知らない所へ。
朝五時半に起きた。待っていると、太陽が昇ってきて、壁にオレンジ色のスポットライト。そこにゴム人形の山羊を置いてみた。
五十年以上前の父のロシア旅行土産。この山羊、指でお腹を押すと、プーヒーッと甲高い変な声で鳴く。すると、玉(うちの猫)が毛を逆立てて、すごい勢いで逃げて行ったっけ。玉が嫌いだったものは、他には、だっこちゃん、父の入れ歯。
手に持って掲げてみると、黒魔術にぴったりの良い握り具合なのだが、こんな呑気な顔してるから、人を呪うなんて無理そうだ。
昼間だから怖くないぞ。自分に言い聞かせ、階段に足をかけた。ここはビルの表口なのか裏口なのか。
赤錆びた鉄階段を、そおっと上がる。一階から二階へ。ドアはあるが開ける気になれない。狭い踊り場の窓は汚れ、光は微かだ。黴臭く、油臭く、オシッコ臭い。
三階あたりで、何かを踏んだ。嫌な感じ。足元に目を凝らしたら、一片の大きなキャベツの葉っぱ。
「なんでキャベツなんだ」
思わず声に出して言ったのは、その方が怖さが薄れるから。
ふいに上方から何やら音が。人が足を引きずるような。物を引きずるような。さっき外壁に貼ってあった写真の超ミニスカートのロシア美女がいるのかしら。でも、こんな所に住んでいるはずはない。それとも人じゃないのかしら。まさかアナコンダじゃ……鱗を鈍く光らせて、ぶっとい体をくねらせながら、暗い鉄階段を下りてくる大蛇の姿が頭に浮かぶ……ズルズルズル。
途端、向きを変え、私は鉄階段を駆け下りる。
「こわいよ、こわいよ、あじゃあじゃあじゃ(非常時の私の口癖)」
足を小刻みにせっせと動かし、カンカンカンカン。我ながら凄い速さ。
下りきるや、ビルを飛び出し、そのまま道路を突っ走り、一息ついて振り返った。さっきの古い雑居ビルひとつを残して、周囲では大規模な取り壊し工事の真っ最中だった。
雲の切れ目から、日没の太陽が一直線に、ビカーッ。強力な光線が遊具やゲーム機の眠りを覚ます。ロケットのエンジンも始動。子供用ロケットだから、私は狭い機内へ無理矢理に体を押し込めた。夕焼け空に向かって、今、飛び立つところ。
デパートの屋上から、地球の皆さん、さようなら。
「きょうもいっぱい歩いたわあ、楽しかったんだわあ」
いつもの曲がり角で今夜も空を仰ぐ。まだ青みを残した晴れた夜空に、ポッカリ浮かぶ雲ひとつ。その右斜め下から、まん丸い月が半分だけ覗いている。真っ白に輝く、お尻半分。
なんて可愛らしい。プリップリの、たっぷりと肉のついた、いいお尻。
しばらく見惚れていたら、
「あら、やだ」
と、雲に隠れてしまった。
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