「カミソリ」と評され、中曽根内閣で官房長官、宮沢内閣で副総理をつとめた後藤田正晴は、大正三年(一九一四年)、徳島県麻植(おえ)郡生まれ。父増三郎は、地元の小学校設立に尽力し、郡会議長、県会議員を歴任した有力者だった。しかし、幼くして両親が相次いで他界したため、姉の嫁ぎ先の井上家に身を寄せることとなった。
旧制水戸高校、東京帝国大学法学部入学。高等文官試験に一度落ちるが、翌年合格。卒業後、内務省に入省した。
昭和十五年(一九四〇年)、徴兵され、翌年、陸軍主計少尉となる。台湾で終戦を迎え、昭和二十一年帰国。内務省に復帰し、同省廃止後、警察庁の官僚となる。
昭和四十四年、警察庁長官。よど号事件、あさま山荘事件など、極左暴力事件を担当した。昭和四十七年、警察庁長官を辞任、昭和四十九年、参議院選挙に田中角栄の支援を受けて徳島選挙区から出馬。しかし、三木武夫の押す久次米健太郎との三角代理戦争の様相を呈し、史上空前の金権選挙と呼ばれた。後藤田は落選、大量の選挙違反者を出し、後藤田自身「自分の人生の最大の汚点」と評した。
平成五年、(一九九三年)六月、選挙制度改革をめぐり、自民党内で羽田孜らのグループが離反、宮沢内閣不信任案が成立する。羽田や小沢一郎は新生党を結成、武村正義らは新党さきがけを結党した。細川護煕も日本新党を立ち上げ、政局は自民か非自民かで、揺れ動く。このとき、後藤田首班であれば、自民党側と非自民党側どちらでも政権が可能だという雰囲気ができつつあった。解散、総選挙後自民党は比較第一党の地位は保ったが、過半数には届かなかった。体調不良だった後藤田は、説得に来た河野洋平を逆に総裁候補に推薦、結局河野が総裁に選ばれる。そして八月六日、衆議院は細川を首相に指名した。後藤田政権誕生は幻に終わり、自民党一党支配のいわゆる五五年体制が終焉した瞬間だった。このとき「東西冷戦の終焉を受けた歴史の必然」というのが、後藤田の基本認識だった。
〈今の日本は、政治について絶望している人が多い。なぜこうなったのだろうと考えてみることが必要だ。私は、政治家が実際に日本の将来を考えるという巨視的な視点がなくなっているところに問題があると思う。日本は結局他国と協調することによってしか生きていけない以上、バランスのとれた国際主義を身につけていかなければならない。日本にそれだけのビジョンが欠けているのは、政治に対する国民と議員との間にコミュニケーションがないのだ。私は、そのための役割を果たしたいと思っているが……〉(〈後藤田正晴〉保阪正康著 文春文庫より)
写真は平成十二年六月撮影。平成十七年没。