第二次世界大戦の終戦から六十五年が経つ。戦争を覚えている世代も少なくなり、すでに歴史の教科書の一ページにすぎないと思っている若い人たちも多いことだろう。かく言う私も「もはや戦後ではない」と言われた後に生まれた世代だから、戦争の苦しさや悲しさ、厳しさの実感はまったくない。
しかし、夏の真っ盛り、広島や長崎の原爆記念日の様子や、テレビの戦争番組を見るにつけ、きちんと知らなくてはならないことだ、と毎年のように思っている。そういう人が多いのか、ここ数年、戦争を知らない世代の作家たちが、戦前・戦中・戦後を通しての大きな小説を書きはじめている。
角田光代の『ツリーハウス』も“大きな物語”への挑戦である。満州から引き揚げ、着の身着のままで新宿の角筈(つのはず)に辿りついた藤代泰造(たいぞう)と妻のヤエは、バラック街の一角で小さな中華料理屋「翡翠飯店」を開く。大陸で一人、引き揚げるときに一人、息子を亡くし、一人、息子を産んだ。終戦の混乱期をなんとか乗り切り、男の子ふたりと女の子ひとりを授かる。高度成長期、店は繁盛し子どもたちを大学に行かせることも出来た。息子が店の後を継ぎ、孫が生まれ、その孫たちも順調に成長し、彼らは老いていく。
一息でこの物語を語れば、どこにでもある市井の一家の三代記である。しかし角田光代は、そんな簡単に幸せな家族の小説なんか書かない。この長大な話のキーワードは「逃げる」。登場人物の誰もが何ものかから逃げ、どうにか生き延びていく。藤代家最年少の良嗣(よしつぐ)が無職のおじ太二郎とともに、祖母のヤエと過去をめぐる旅に行くことで、それぞれが逃げ延びたことの正体が、次第に明らかになっていく。
彼ら三代が生きた時代には、それぞれエポックメーキングな出来事があった。それはさながら昭和・平成の歴史のクロニクルである。私の記憶は東京オリンピックあたりからしかないが、初めて見た東京タワーの大きさや新幹線の速さに目をみはり、浅間山荘事件でテレビの前に釘付けになったことは、その時代の人なら誰でも経験したことではないだろうか。それぞれの事件は、藤代家の誰かを捕らえ、何かを犠牲にしながら小さなご褒美を残していく。新しい命、新しい人生、新しい歴史となって。
この小説は、徹底的に個人の物語である。時代のうねりや社会的な大事件に巻き込まれても、それを客観的で大づかみな言葉ではなく、個人の目、体験した人の側から語っていく。どんなに悲惨で恐ろしい出来事であったとしても、それを経験しているのはいつもその人ひとりだ。他人にはわからない。藤代家の人々はそれを体現するかのように、家族を含めて他人に干渉しない。来る者は拒まず、去る者は追わず。心配していないわけではないが、それでいいなら仕方ないじゃないか、と誰もが思っている。だから居心地がいい。一度はどこかへ出て行ってもいつの間にか決まった止まり木に戻る鳥のように、翡翠飯店のテーブルに帰ってくる。
角田光代という作家は「今」を切り取ることが上手だ。『対岸の彼女』も『八日目の蝉』も『森に眠る魚』も、現代の女性たちのリアルな問題に真正面から向かっていく。そんな小説がとても魅力的だし、ファンが多いのも頷ける。
しかしこの『ツリーハウス』は少し違っている。「今」を過去から照射する試みがとられている。特別な人は誰も居ない。時代に沿って流されるように生きる普通の人々ばかりだ。「逃げる」ことによって生き延びた人たちが、家族を作り子どもを産んでいく。木の上にぽつんと建てたツリーハウスから、やがて樹形図のように家族が枝分かれし大きな木に成長していく。そして、いつの間にか太く逞しくなっている幹と、大地に大きく張り詰めた根に人々は気づくのだ。この意欲作を大いに堪能して欲しい。