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行司差し違え<br />

行司差し違え

文:花村 萬月 (作家)

『すなまわり』 (鶴川健吉 著)

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

個人的には興行なのに八百長云々する正義の味方は許し難いが、それに輪をかけて国技などと称して身動きできなくなった相撲協会の阿房ぶりには苦笑も湧かぬ。八百長。これは虚構の壺で、だからあえて脇道に逸れたように見せかけたわけだが〈乾燥腕〉はとりわけ八百長臭い。これは褒め言葉で、途中からガガンボの、金魚の、あるいは熊鼠の視点まで登場して、やたらと細部にこだわりつつも、すべては他人事じみた観察に終始する。それどころか、その観察は際限なく、カマドウマがベタッポ、ベタッポ、雨がしわしわ――と秀逸なオノマトペに彩られてとどまるところをしらない。陰毛のことなど読みたくもないのに、いよいよ小説家という名の行司の細部にこだわる眼差しのおかげで、こんな文体と視点はきっと悪い影響を私に与えるとちいさく怯えつつ己をねじ曲げ続けて手許に用意したミルクコーヒーを飲むのも忘れて頁を繰る。目の当たりにした現象を言語であらわす。行司の頭の中には見たものに対する無数無限の言葉が殆ど意識せぬままに詰まって渦巻いているのだ。その一端が覗けるのが〈すなまわり〉の雲海と木下の取組だ。たてみつがゆるむあたりも含めてお話しとしては逸脱の欠片もないが、土俵上における行司は単なる目に過ぎず、断言してしまうが、鶴川健吉は土俵で小説家の目を得たということだ。ふつうの小説家は土俵上で眼差しの修業をすることができぬから、あれこれ自分で工夫するわけだが、行司というメソッドで武装した鶴川健吉は指先のほんの一点が土俵の外に出たのも見逃さぬその眼差しでもって、小説という散文を構築していく。じつは行司と小説家は意外に近しいところにいる。小説家は時折、おおむね、いつでも審判だ。目に見えぬものも含めて小説家はその目に見えたものしか書けないという事実を鶴川健吉の小説は突きつけてくるが、こんなお利口な結論じみたことを書いてしまったことを窃かに恥じつつ、〈すなまわり〉も処女作〈乾燥腕〉と同様に見るだけに特化した作品であることが、いかに鶴川健吉という小説家に行司が染みついてしまっているかをあらわしている。これを徹底していくと、いつか小説の極北に至るのではないか――などと書くのは褒めすぎか。だが作中で自分のひび割れたかかとが土俵の塩を含んだ砂で痛む描写の見事に客観的かつ他人事なことよ。おそらく作者自身はその痛みを実感しているのだろうが、行司の眼差しがすべてを客観に変換してしまう。すくなくとも己をねじ曲げて鶴川健吉の文章に付き合っている私にとっては、痛みもなにもかもが他人事といっては語弊があるが、感情移入をあっさり拒否されて、仕方なしに鶴川健吉の眼差しに付き合ううちに、ちいさな惑乱がおこり、いろいろあるけれどなにもない――という境地にまで至ってしまう。ところで作中で自ら物言いは好きだ、と書いているので、あえて物言いを――。〈すなまわり〉も〈乾燥腕〉もおさまるところにおさまって読み手である私を裏切ることがない。裏切ればよいというものではないが、そして現実の現象というものは案外物語じみていて、だからこそなにも起きないのだと鶴川健吉は呟くかもしれないけれど、それでも次の作品では行司差し違えを期待したい。相撲における行司差し違えはまずいかもしれないが、小説という名の虚構においては差し違えこそが肝であることに気付いていてほしい。いまの行司の眼差しを徹底して、さらにあえて差し違えを巧む。鶴川健吉のような端正な小説家にとって、これは結構大変なことだよ。期待しています。

文學界2013年10月号

特別定価:1000円(税込) 発売日:2013年9月6日

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すなまわり
鶴川健吉・著

定価:1313円(税込) 発売日:2013年08月23日

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