走井(はしりー)は親たちのような境涯をなぞりたくなかった.おさえつけられた,力もなく物もないくらしは断じてぬけたかった.
もとでもなく,つてもなく,体力もなく,小児期から身にそわせた手わざもなく,ただ知力だけがたのみであった.どんなにつかってもただであることばによってひたすらいそしむのが方策であった.
走井(はしりー)にあっては精神の階をのぼることと世俗の階をのぼることとが,かなり長じるまでおなじ方向にあり,きしみはじめても,きしみのほうが誤まっていると見なされることになった.
世俗の階はあきらめて,むしろくだるかくごをつけてはじめたつもりの私は,走井(はしりー)がぎゃくを向いているのにとまどった.とまどうまでにさえ千にちかかった.これまでに走井(はしりー)のような者と出あわなかったわけではないのかもしれないが,作品がよくなければ,いなおりがたりないのだとじぶんの方向で裁きすてて,それいじょうかんがえてみようという気になれなかった.
しかし,おもいきるものもない地点から噴きあげてきた走井(はしりー)がどうして両ほうをのぞんでいけないわけがあろうかとくやしがって泣くとき,走井(はしりー)の成した作品の値うちにふさわしい名を富を,あきらめろという理由はたしかに見つからなかった.
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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