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国家社会にとり、真に大事なものは何かを考え抜いた田中美知太郎

国家社会にとり、真に大事なものは何かを考え抜いた田中美知太郎

文・写真:「文藝春秋」写真資料部

 田中美知太郎は、哲学を難解な言葉で説くのではなく、平明な文章で一般の読者に問いかけ続けた。明治三十五年(一九〇二年)、新潟市に生まれる。旧制開成中学を卒業後、上智大学本科を経て、京都帝国大学文学部哲学科選科を修了。昭和二十年(一九四五年)五月、東京で空襲にあい、焼夷弾のため、顔と手に大やけどを負う。生死の境をさまようが、奇跡的に助かった。    

 昭和二十五年、京都大学教授に就任する。この年、日本西洋古典学会を設立、呉茂一の後を継いで、昭和三十一年二代目委員長となる。

 昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約調印をめぐって、単独講和か全面講和かと国論が二分したとき、小泉信三らとともに単独講和を支持した。昭和四十三年、保守系文化人の団体、「日本文化会議」の設立に参画、終身理事長を務めた。昭和五十三年、文化勲章を受章。受章理由は、「西洋古典の基盤の上に立って、哲学の永遠の問題に正面から取り組み、西洋古典文献学では日本の第一人者。ユニークな文明評論家としても活発な活動を続けている」。

 写真は昭和五十九年に京都の哲学の道で撮影されたもの。

〈平明で粘り強い叙述、人間にとり、また国家社会にとり、真に大事なものは何かをともに考えようとする言説は、昔から今に変らぬ魅力である〉(「文藝春秋」昭和五十九年十一月号「日本の顔」より)

「文藝春秋」の巻頭随筆のトップを昭和六十年一月号から昭和六十一年一月号まで書き続けたが、昭和六十年十二月に永眠した。

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