本書の登場人物たちは、みっちゃんと呼ばれる美津子を筆頭に、みな心に欠落を抱えていまを生きている。美津子の母であるところの妻を亡くしたパパがそうであるのは当然として、美津子と血縁があり、兄妹さながらの存在にして大恋愛の相手でもあった進一は両親に捨てられた過去がある。蜻蛉のようにはかない進一の妻は夫にも言えない幼少期の事件を背負い、美津子の恋の相手は母親の死に際し、ステーキハウスで人目をはばからずに号泣するのだった。
そんな彼らも、鉄板の上に乗っかった肉汁あふれるハンバーグに食らいついたり、自分の存在が認知されたコミュニティで人とふれあったり、あるいはじっと時間が過ぎるのを待ちながらありふれた日常をこなすうちに、その傷を治癒してゆく。
〈ママが死んだ頃は、町中がどんよりとグレーに見えて、あまり町から出ないで生きてきた私はどこに行ってもママの思い出を見つけて、しゃがみこんで涙を流したものだったが、最近になってやっと世界の美しい色が戻ってきた。/ある冬の朝、あれ? 椿の色が濃くてきれいだな、葉の色も濃い緑だな、と思ったのがきっかけだった。椿という小さな窓から、じわじわと世界は色を取り戻していった〉
悲しみという傷につける特効薬などはなく、そのときどきに自分の本能が、最良と教えてくれることに迷わずにしたがい、光さす方、さす方へと向かうことが傷を癒すいちばんの近道になる。そしてそのとき、一冊の本やマンガや一本の映画はある種のトーテムのように、自分に寄り添うお守りとなってくれる――。
そんなシンプルなメッセージを、本書やあるいは『もしもし下北沢』は読む者にたしかに発しているように感じる。そのメッセージとは、まさに「文学の力」の謂だ。金の力や、政治の力のような即効性は持たないながら、文学は人々が個々に行なう「喪の作業」をそっと後押しする力を持っている。そしてよしもとばななは、その文学の可能性にすべてを賭けるように、市井の人々の喪失と再生の物語を、繰り返し紡いでいるのではないだろうか。
ある作品を、それが生まれた時代に固着させて評価する方法はときに作品を貶めることにもなりかねないが、この『ジュージュー』が、先の東日本大震災の前に書かれ(初出は「文學界」4月号)、それから4ヶ月経たのちに刊行されたことは、ひとつの小さな奇跡のようにも思える。とつぜん未来が絶たれた死者のことを悼み、自身の心の喪失に向き合う人に、この小説が、よしもとの祈りが届けばよいと素直に思う。
かつて自身も小説を書いた批評家のスーザン・ソンタグは、作家の責務とは別の時間、別の場所で他人に及んでいる事態を想像することだと繰り返した。〈だからフィクションが必要なのだ――私たちの世界を拡張するために〉。その意味でよしもとばななは、現在を生きる正しき作家である。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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