三木武夫は明治四十年(一九〇七年)生まれ。明治大学卒業後、昭和十二年(一九三七年)衆議院議員総選挙に立候補して初当選。戦後、片山内閣で逓信大臣として入閣した後、保守合同に参加して、自民党に加わった。佐藤内閣で外務大臣。党内では保守本流とは一線を画し、絶えず少数派閥を率いる姿勢は「バルカン政治家」とあだ名された。
昭和四十九年(一九七四年)、田中内閣総辞職で、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で自民党総裁に就任。このとき三木は〈青天の霹靂〉の言葉を残した。
昭和五十一年(一九七六年)、ロッキード事件が起ると、自民党内に三木おろしの倒閣運動が起るが、これは世間から〈ロッキード隠し〉と批判され、三木はロッキード事件の全容解明を旗印に政権を維持した。田中角栄逮捕により、三木おろしが再燃、挙党体制確立協議会が設立される。結局、三木は解散権を行使しないまま、戦後初めて任期満了による衆議院議員総選挙をむかえることになる。自民党はこの選挙で単独過半数を割り込み、三木は責任をとって退陣した。
写真は昭和五十一年一月、自民党結党二十周年祝賀パーティにて撮影。
昭和六十三年没。