池波正太郎は、関東大震災が起きた大正十二年(一九二三年)に東京・浅草で生まれた。震災のためしばらく東京を離れるが、浅草で育った。
浅草にはよく一人でブラリと出かけた。勝手知ったる町である。散歩の途中、うまいものが食べたくなって、なじみの店に立ち寄った。大正二年創業の老舗・並木藪蕎麦もそのひとつである。寒い時期には、池波正太郎は鴨なんばんを肴に酒を飲むのが好みだったという。
〈氏の作品には、思わず舌なめずりする美味いものが出てくるという定評がある。氏の自叙伝『青春忘れもの』の中にも、給料が入ると、美味いものを食べ、良い芝居を観る、という喜びが記されている。
「この店の味は昔から変わらないね」――浅草の『並木のやぶ』は氏のお気に入りの店である〉(「オール讀物」昭和五十年=一九七五年七月号)