小泉信三は明治二十一年(一八八八年)生まれ。父は慶應義塾長や横浜正金銀行の支配人を勤めた小泉信吉(こいずみ・のぶきち)。幼いころは、晩年の福沢諭吉に可愛がられたという。御田小学校から慶應義塾大学まで作家の水上瀧太郎が同期生だった。のちに水上の妹とみと結婚する。大学卒業後、母校の教員となり、イギリス留学を経て、帰国後、教授となる。デヴィッド・リカードの経済原論を研究し、マルクス経済学を批判した。昭和八年(一九三三年)、塾長に就任する。
スポーツ教育にも力を入れ、庭球部部長をつとめ、体育会発展に貢献した。また、昭和十八年、出陣学徒壮行早慶戦、いわゆる「最後の早慶戦」開催を早大野球部監督飛田穂洲に申し込み、軍部の圧力にも屈することなく実現にこぎつけた。「練習は不可能を可能にす」の名言を残している。
戦争で長男信吉(しんきち)が応召され戦死。昭和二十年、自らも東京大空襲で顔に重度の火傷を負う。昭和二十四年、皇太子明仁親王の東宮教育参与として、教育係りに就任した。「ジョージ五世伝」などをテキストとして、新しい時代の帝王学を説いた。美智子妃との婚姻に当たって、実質的な仲人をつとめたとされる。
写真は昭和二十六年撮影。昭和四十一年没。
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