梅雨どきの京都の観光スポットとして人気を集めるのが、正法山妙心寺の46ある塔頭(たっちゅう)のひとつ、東林院で開催される《沙羅(さら)の花を愛でる会》だ。沙羅双樹の寺とも称される東林院の庭には数10本もの沙羅樹(さらのき=夏椿)が植えられていて、青々とした苔が絨毯のように広がる上に、たった1日だけ咲いて散る白い花の落ちた様子が、なんとも儚い感興を誘う。
妙心寺が建学母体の私立大学で非常勤講師をしている僕は、誘われて3年前に1度、件(くだん)の会に参加したことがある。映画を一本観るくらいの拝観料で沙羅の花を鑑賞しながら抹茶をいただき、お坊さんの説話を拝聴する。ツバキ科の夏椿は、じつは釈迦が入滅したとき四方に生えていた沙羅双樹とは別の植物であることを教えられたのは、この折。フタバガキ科の熱帯樹である沙羅双樹は日本の風土では自生せず、白い花を咲かす夏椿を沙羅双樹と間違えて、そう呼び慣(なら)わすようになったとか――。
京都在住の気鋭のミステリ作家、岸田るり子の新作長編『白椿はなぜ散った』で、この《沙羅の花を愛でる会》が極めて重要な位置を占める。この会に、本書の主人公である望川貴(のぞみかわたか)は、所属する文芸サークル《カメリア》のメンバーとともに小説創作のモチーフを求めて参加するのだ。同じサークルで活動する幼なじみの万里枝(まりえ)を一途に思いつづけてきた貴は、明らかに万里枝がモデルの“沙羅の妖精”を賛美した20枚ほどの短編小説「沙羅を愛した僧侶」を完成させた。サークルの会誌にも掲載されたこの小説が、10年後、スキャンダラスな盗作疑惑の火だねとなる。
物語の初めの3分の1は、長じて理工系の科学者となる望川貴の半生記とでも言うべきものだ。幼稚園に通(かよ)っていたとき、日本人とフランス人のハーフである万里枝に会った瞬間から貴は恋していた。2人は小学生時分は互いの家を親しく行き来し、つかず離れずの10代の時を経て、同じ大学に入った。ところが、文芸サークルの仲間で日本有数の財閥家の御曹司である西脇忠史(にしわきただふみ)が万里枝に懸想していることに危機感をおぼえた貴は、あさはかな策略に奔る。異父兄で、眉目(みめ)うるわしい木村晴彦(きむらはるひこ)に万里枝を誘惑してもらい、西脇に彼女のことを諦めさせようと企んだのだ。
主人公の貴は、自分と万里枝の家庭環境を重ねて、2人は似た者同士だと思っていた。彼が異父兄の晴彦を巻き込んで実行した不純な策略も、自分の母が1度目の結婚に失敗して、2度目でようやく安住を得た先例(モデル)に学んだものだ。短編「沙羅を愛した僧侶」を書き上げた貴は、それを木村晴彦名義で発表させて、西脇の“横恋慕”を完璧にくじいた。あとは、晴彦が万里枝を手ひどく振ることで、彼女は次こそ自分を選んでくれるはずだったのに……。
文芸サークル内における恋愛事件は、10年後に意外な展開をみせる。当代の人気作家、青井のぼるが最新作の中で“作中作”として書いていた小説が、なんと「沙羅を愛した僧侶」と一字一句違わぬものだったのだ。この盗作疑惑の一件で青井は恐喝されていたらしく、さらにその恐喝者が死体となって発見されたことで、事態は混迷の度を深める。疑惑の背景を詳しく語らぬまま青井が失踪してしまったため、代わりに彼の婚約者、中水香里(なかみずかおり)が真相の究明に乗り出すのだ。問題とされる短編「沙羅を愛した僧侶」がすでに10年前に引き起こしていた悲劇――作中の“沙羅の妖精”のモデルであった万里枝が突然の死に見舞われていたことの真相をも、素人探偵の中水は探り出す巡り合わせとなる。
盗作疑惑が引き金になる殺人事件の追及も二転三転してスリリングだが、やはり本書は青春ミステリとして得難い作品である。それも、現在進行中のものではなく、青春の時から10年が過ぎた“遅れてきた青春ミステリ”として。――いや、そもそも青春時代などというものは、つまるところ、失われて初めてそれを語れるものだろう。主人公の貴にとって、もはや報(しら)されたところで手遅れでしかない真相は、じつに彼の青春の最高の輝き(ハイライト)だった。しかし本書は、それを容赦なく苦い味(ビター)に描いて、悲痛な余韻が後をひく秀作だ。
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