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軍部にもGHQにもおもねらなかった石橋湛山

軍部にもGHQにもおもねらなかった石橋湛山

文・写真:「文藝春秋」写真資料部

 石橋湛山は明治十七年(一八八四年)、日蓮宗僧侶の家に生まれる。早稲田大学卒業後、毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)に入社。兵役を経て、東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーの影響を受け、オピニオンリーダーの一人として、早くから「民主主義」を提唱した。日本の植民地主義を批判し、加工貿易立国論を唱えて、在外植民地の放棄を主張し、小日本主義と称された。

 大正十三年(一九二四年)、主幹となる。部下の高橋亀吉とともに経済論壇で活躍、浜口内閣での金解禁に当たっては、金本位制復帰に反対して、実体経済にあわせて通貨価値を落とした上での復帰を主張し、井上準之助蔵相と論争した。

 日中戦争が始まると、長期戦化を戒める論陣を張り、政府、内務省や軍部から疎まれた。インクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊はまぬかれた。

 戦後、昭和二十一年に吉田内閣の大蔵大臣として入閣。石炭増産のための傾斜生産や復興金融金庫を活用したインフレ政策を推進した。戦時中、軍部におもねらなかった石橋に好感をもったGHQだが、戦時補償債務打ち切り問題や石炭増産、進駐軍経費問題でGHQと対立。当時の公職資格審査委員会が満場一致で追放非該当としたにもかかわらず、公職追放令が出された。この公職追放には吉田茂の影響も指摘された。四年の空白を経て政界に復帰、自由党・鳩山派の幹部として、打倒吉田をめざした。昭和二十九年の鳩山内閣で通産大臣に入閣。昭和三十年保守合同により、自由民主党が結成され、石橋も入党した。翌年日ソ共同宣言による国交正常化の後、鳩山首相が退陣。岸信介と後継を争い、総理の座に着いた。しかし、組閣に難航し、ほぼすべての閣僚を兼務して発足した。全国遊説後、軽い脳梗塞に倒れ、二ヶ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると、辞任を表明した。昭和四十八年(一九七三年)没。写真は、昭和三十九年撮影。

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