町工場から身を起こし、ホンダを世界に冠たる自動車メーカーに育て上げた創業者、本田宗一郎は明治三十九年(一九〇六年)生まれ。高等小学校卒業後、自動車修理工場に丁稚奉公する。六年勤務したのち、のれん分けを受けて故郷浜松で独立。
戦後、藤沢武夫を経営担当のパートナーとして迎え、本田技研工業株式会社を設立し、二輪車の研究をスタートさせる。会社の業績が急速に拡大するなか、高額の工作機械を受注したが、昭和二十八年(一九五三年)、朝鮮戦争が終わり、特需景気が急激に冷え込んだため、会社は一気に資金繰りに窮した。社員への給料の遅配が心配され、設立されたばかりの労働組合に厳しく追及された。このとき本田は藤沢とともに全従業員を集め、謝罪した。
〈今、実際、金がない。勘弁してもらいたい。その代り、私は死を賭しても働いて、借りは返します。皆さんを幸福にする。おれは社長として、それをどうしてもやらねばならないという義務があるのだから……申しわけないが今は勘弁して下さいと言って手をついて謝りました。そうしたら、みんな拍手をしてくれて、納得してくれました〉(「文藝春秋」昭和六十年六月号「『世界のホンダ』が二度泣いた話」より)
昭和三十六年、マン島レースで団体優勝をとげ、ヨーロッパ中にホンダの名が知られるようになった。また、若手を積極的に登用、昭和四十八年には、自らも社長を勇退した。
〈私は儲けたい、幸福になりたい、女房に内緒で遊びたいという、普通の男です。ただ、もし企業家として他人とちがうとしたら、人に好かれたいという感情が強いことでしょうね。これが強いから、金だけで企業をやる人とは、過程においてかなりちがうのかもしれません〉(同前)
平成三年(一九九一年)没。写真は昭和六十年三月撮影。