「新幹線の父」と呼ばれた十河信二(そごう・しんじ)は、明治十七年(一八八四年)、愛媛県新居郡中村(現在の新居浜市)生まれ。尋常中学校卒業後上京し、旧制一高を経て東京帝国大学に入学。卒業後、鉄道院に入る。
鉄道院総裁だった後藤新平の影響を受け、路線の狭軌から標準軌への改善を唱え、島安次郎らとともに事業計画を立てたことが後の新幹線構想につながった。大正十二年(一九二三年)関東大震災後の首都再建のために設立された帝都復興院に出向し、後藤新平総裁の下で働くが、贈収賄事件に巻き込まれ、逮捕される。控訴審で無罪をかちとるが、復興院を辞職する。
昭和五年(一九三〇年)、南満洲鉄道(満鉄)に入社する。翌年満洲事変勃発。昭和十年、興中公司社長に就任するが軍との関係調整に苦しみ、昭和十三年、辞職する。
戦後、愛媛県西条市長を経て、鉄道弘済会会長などを務めた。昭和二十年代後半、洞爺丸事故、紫雲丸事故が相次ぐ中、国鉄総裁・長崎惣之助が辞任、後継総裁のなり手がいなくなった。事態を憂える十河に総裁就任が打診されるが、健康を理由に固辞する。しかし、四国出身の三木武吉・日本民主党総務会長に「赤紙を突きつけられても祖国の難に赴くことを躊躇する不忠者か」と説得され、「不忠者にはならん」「レールを枕に討ち死にする」と総裁就任を引き受けた。
就任後、新幹線建設を唱え、経済性の観点から反対する技師長を事実上更迭する。島安次郎の息子、秀雄を技師長として迎え入れた。昭和三十四年、政府から総裁解任案が浮上するが、新聞が十河擁護の論陣を張り、国鉄内部からも再任の声が強く総裁の座にとどまった。
〈彼が常々口にする言葉がある。
「誰が正しいかではない。何が正しいかなのだ。誰が言おうと正しいことは、正しいのだ」〉(「週刊文春」昭和三十四年十一月三十日号より)
写真はこのとき撮影。
新幹線建設にかかる巨額の費用捻出のため、世界銀行から八千万ドルの融資を受けることに成功。しかし、昭和三十八年、東海道新幹線建設の予算超過の責任を負い、総裁を退任する。
昭和三十九年十月一日。東京オリンピック開幕を目前に控え、出発式が東京駅の東海道新幹線ホームで華々しく行われたが、十河の姿はなく、自宅でテレビをみていた。
昭和五十六年十月没。遺骨とともに遺影が新幹線で故郷に戻る時、車窓の外に向けられ、各駅で駅員ら国鉄マンはこれを敬礼で迎えた。