幼いころから漫才や芝居で活躍し、円熟の芸を見せていたミヤコ蝶々、このとき四十代なかば。京都・舞鶴神崎海岸に遊ぶ姿は、「文藝春秋」昭和四十一年(一九六六年)十月号の〈日本の顔〉を飾った。まったくのカナヅチだが、泳ぐのは大好きだったという。
大正九年(一九二〇年)、東京・日本橋生まれ。芝居好きの父親は七歳の娘を座長に「都家蝶々一座」を結成。学校にも行かず、旅回りの日々だった。昭和十八年、吉本興業に招かれ、大阪に移る。
若い頃から恋多き女性だった。妻子ある十七歳年上の漫才師、三遊亭柳枝の「略奪愛」に成功するが、柳枝の浮気癖に悩み、四歳年下の劇団事務員と駆け落ち。この事務員がのち、「蝶々・雄二の夫婦善哉」(ABCラジオ、テレビ)で大人気を博す相方、南都雄二である。
南都とも別れた後、テレビマンとの噂など、色恋の話は絶えなかったが、特に舞台に力を入れ、昭和五十九年には紫綬褒章を受ける。
人情の機微を鋭く語り、「ナニワのおかん」として親しまれるが、平成十二年(二〇〇〇年)、腎不全のため世を去る。最後の舞台はその前年、ホームグランドだった道頓堀・中座のさよなら公演だった。
遺品は、大阪・箕面の自宅を改装した「ミヤコ蝶々記念館」に眠っている。