幸田文は、「五重塔」で知られる幸田露伴の次女として、明治三十七年(一九〇四年)に生まれた。五歳で母を亡くし、後に姉と弟も失った。少女時代から生活技術を父から仕込まれたが、露伴の没後、その思い出を記した随筆集が注目を集めた。
昭和二十五年(一九五〇年)、四十六歳にして断筆を宣言するが、五年後「流れる」を発表。随筆家から小説家へと変身をとげた。
昭和三十二年、父が小説で描いた谷中天王寺の五重塔焼失を目撃した文は、後年、落雷によって焼失した奈良法輪寺の三重塔の再建に奔走する。このとき、斑鳩町に仮住まいし、再建を見守った。
〈法輪寺の塔は、焼失した古塔の再建で、つい昨冬落慶をすませたばかりです。いかに古式を守って建てたとはいえ、新築の塔です。塔は塔自身の運縁に従って、日々を重ね、経歴を積んでいくものであり、建築もまた、歳月を経て、だんだんと姿をきめていくとききます〉(「週刊文春」昭和五十一年=一九七六年三月十一日号)
平成二年(一九九〇年)没。