昭和三十年代半ば、週刊誌草創期のころ、トップ屋と呼ばれる書き手がいた。雑誌の巻頭を飾る記事を任される書き手のことである。梶山季之もその一人だった。
昭和五年(一九三〇年)、朝鮮の京城(現在のソウル)に生まれる。昭和二十年、京城帝大予科に入学するが、終戦を迎え、両親の郷里広島に戻る。農業につくがうまくいかず、新聞社を受けるも、肺に空洞が見つかり落とされた。上京して喫茶店、バーを経営するがこれもうまくいかない。昭和三十四年、「週刊文春」創刊に際して、仲間とともに参加、「梶山グループ」としてスクープ記事を連発した。週刊誌記者、ルポライターとして活躍するが、結核を発病して入院生活を送る。これを機に小説執筆を本格的に始め、昭和三十七年、産業スパイを描いた「黒の試走車」で一躍人気を得た。売れっ子時代は月産八百枚といわれるほど、数多くの原稿を執筆した。
当時、深夜、仲間とたどり着いたバーからトイレにいくふりをしてこっそり抜け出すことから、ついたあだ名が「フケ(逃げ)の梶山」。
〈氏の友人は二とおりの感想を持つ。
A「明日の仕事を控えていながら、彼はその人の好さのため仲間を振り切って帰れない。窮余の策なんだなあ」
B「彼は、サヨナラをいうのがたまらなく淋しいんですよ。だからソッと立つんです。でないとやりきれないんだ」〉(「週刊文春」昭和三十九年四月二十日号より)
写真は同年六月に撮影。昭和五十年、取材先の香港で吐血し、客死した。