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不幸な生い立ち、左翼からの転向。<br />波乱の人生のなか、真摯に書き続けた高見順

不幸な生い立ち、左翼からの転向。
波乱の人生のなか、真摯に書き続けた高見順

文・写真:「文藝春秋」写真資料部

 明治四十年(一九〇七年)、永井荷風の叔父でもあるのちの貴族院議員・阪本釤之助が、福井県知事として赴任当時、現地の女性に生ませた「非嫡出子」が高間芳雄、のちの高見順である。芳雄少年が一歳のとき、父の転任に従い東京・麻布に移り住むが、邸宅付近の陋居に住まわされ、父の顔を見ることは一度もなかった。わずかな手当と針仕事で生計をたてる母は「政治家になって父を見返しておくれ」と芳雄少年に語っていたという。

 勉学のすえ一高、東京帝大と進み、そこでプロレタリア文学に目覚め、「左翼芸術同盟」に参加。しかし二十六歳のときに治安維持法違反の疑いで検挙。半年の拘留のすえ、「転向」を表明し釈放された。

 以後、高見順の小説は「転向文学」と呼ばれる。二十八歳、左翼崩れのインテリの苦悩を「饒舌体」で描いた「故旧忘れ得べき」で、第一回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。

 陸軍報道班員として徴用され、ビルマ侵攻作戦に帯同したこともある。軍政下にあってビルマの人や文化に真摯に向き合い、のちに現地で作家となった人々から感謝されている。この時期を含む、戦中から戦後にかけての日記は「高見順日記」として出版された。昭和史の貴重な資料となると同時に、戦争協力や、占領地の人々への優越した態度などを、隠さず素直に公表している点が高く評価され、永井荷風と並ぶ日記作家と呼ばれる。荷風は従兄弟にあたるが、その生い立ちの経緯もあり、関係は険悪であったという。

 その後も真摯に執筆を続け、晩年には日本近代文学館の建設に尽力したが、落成を待たず、昭和四十年(一九六五年)、食道癌で逝去した。享年五十八歳。

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