書評

著者を命名した初めての私小説――「プロローグ」はまだはじまったばかりだ

文: 佐々木 敦 (批評家)

『プロローグ』(円城塔 著)

『プロローグ』(円城塔 著)

 右の引用の二つ目の文章の頭に置かれた「自分」に注目してみたい。それからその次の文章の「これ」にも。その次の文章の主張することは、すなわち「自分=これ=文章」ということである。これはまったくもってその通りであり、難があるとすれば「その通り」以外/以上のことが何も述べられていないようだ、ということだろう。ざっくり言って、今(とは畢竟それぞれの「今」でしかないのだが)、現に書かれ/読まれつつある、ひと連なりの文章それそのものがとつぜん語り始めており、それが語れるものといえば今のところは「自分」であり「これ」である何かでしかなく、そしてそれは誰の目にも明らかなように「文章」と呼ばれるものであるということで、まったくもってその通りである。これがこれをリアルタイムで記述する。たとえば「これはこれである」。或いはこういう文章もある。「わたしは今、この文章を書いている」。或いはこういう文章もある。「あなたは今、この文章を読んでいる」。この二つの文章は、時空を越えて向かい合っている。このような文章のことを何と呼ぼう。このような「これ」のことを何と名付けようか。それを『プロローグ』の作者はかつて「Self-Reference ENGINE」と名付けた。自己言及機関。それはこの作者の最初の小説のひとつでもある。2007年のことだ。『Self-Reference ENGINE』は、円城塔のデビュー長編である。小松左京賞の最終候補落選作(受賞作なし)を改稿した作品だった。相前後して「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞受賞、第137回芥川賞候補となり落選。それから四年後に「これはペンです」で第145回芥川賞候補となり落選。それから半年後に「道化師の蝶」で第146回芥川龍之介賞受賞。しかしこういうことを解説に記すのは狡いのではないか。この文庫本のカバーのどこかに記されているかもしれず、そうでなくてもGoogleその他の検索エンジンに「円城塔」と打ち込めばすぐさま出てくる情報に過ぎない。便利な時代になったものだ。便利な時代になってから久しい。便利な時代の成れの果てにおいて書かれたのが『プロローグ』だと言ってもよい。便利が度を超すと却って一本道が迷路になってしまう、という認識を齎すのが『プロローグ』だと言ってもよい。話を戻すと、先ほど語り始めたばかりの「自分=これ=文章」は、大変残念なことに、事もあろうに「日本語」と呼ばれる超マイナー言語であったという驚くべき、だが誰の目にも最初から明らかだった事実が開示され、と同時に「自分=これ=文章」は「英語」なり何なりに翻訳される可能性をもあらかじめ心得ているようでもあり、しかし今、あなたの目に見えている文字が「日本語」であるように、これの前に置かれているはずのひと連なりの文章たちもまた「日本語」であることは一目瞭然で、しかし「自分=これ=文章」であるところの、日本語で書かれた『プロローグ』と名乗る小説はまだはじまったばかりだ。ところで、この「自分を記述している言語」が差し当たり「日本語」であるということを「自分=これ=文章」に教えるのは「わたし」である。と言っても、わたしではない。

プロローグ円城 塔

定価:本体890円+税発売日:2018年02月09日


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