じつは『江戸の名奉行』の前に『江戸の盗賊』なる本を書いた。大盗賊から御金蔵破り・荒稼ぎ(ひったくり)まで、盗み技の異なる名高い盗人10人ほどを時代の推移のなかで取り上げ、その働きぶりの始終を書いた。
それに対し、この『江戸の名奉行』では、主人公を一転し、幕府の奉行たちの奮闘ぶりを書いた。寺社奉行・町奉行・勘定奉行・遠国奉行・火付盗賊改・関東郡代・牢屋奉行の諸奉行23人(本論)プラス20人(小伝)、江戸初期の板倉勝重から江戸無血開城に際して自刃した川路聖謨(としあきら)まで、総勢43人である。
43人というと多いようだが、歴代の就任者延べ数をみると、寺社奉行は194人、町奉行93人、勘定奉行217人、火付盗賊改240人にのぼる。それほどのなかのわずか43人だが、いずれも名奉行ないし名物奉行たちである。
副題に「43人の実録列伝」とあるとおり、収集した史料類に則して描いた。
おもに用いた史料は幕府伝存の裁判記録(『御仕置例類集』など)や家譜(『寛政重修諸家譜』など)、また履歴録(『柳営補任』など)であるが、どれもわかりにくく無味乾燥といえる記録である。しかし、それらのデータの中に分け入ってゆくと、魅力的な人物像が立ち現れてくる。
43人は、板倉勝重と寺社奉行の大岡忠相(ただすけ)・脇坂安董(やすただ)が大名、牢屋奉行石出帯刀(いしでたてわき)が御目見以下の御家人であるほかは、みな「旗本」である。旗本は江戸中期に約5200家もあり、当主は「殿様」とよばれていた。人柄はピンからキリまでで、みな家柄を背負って一癖も二癖もある猛者(もさ)連中であり、文武から道楽まで競い合っていた。
そうしたなかで「名奉行」といえば、今では大岡越前守と遠山金四郎ばかりが名高いが、江戸城中や江戸市中で評判だった奉行には、曲淵景漸(まがりぶちかげつぐ)や根岸鎮衛(やすもり)・矢部定謙・池田頼方らがいる。「曲淵景漸」という名は初めて聞く人が多いだろう。北町奉行になってまもなく、「明日、小塚原で刑死人の腑分け(解剖)をするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師に伝令した。杉田玄白と前野良沢はこの知らせで翌朝、小塚原へ行って刑死人の内臓を実見することができた。
ここから『解体新書』が生まれ、蘭学の第一歩が踏み出された。町奉行の一挙一動は、こんな予期せぬ結実を生み出した。
本書では、治安・警察・裁判の統轄者の町奉行の顔だけでなく、広く江戸庶民の民政・文化全般にかかわる「余談」といってよい話題も取り上げた。その点は火付盗賊改や遠国奉行(長崎奉行や奈良奉行)ほかについても同じである。
そのため大岡越前や遠山金四郎、長谷川平蔵も、映画やテレビの時代劇に見る相貌とは別の姿で登場するが、彼らの素顔を見てもらえればと思う。
たとえば「鬼平」こと長谷川平蔵は、時代劇ではもっぱら番方(武官)旗本のトップとして縦横無尽の活躍をしているが、じつは役方(文官)としての能力も抜群であった。
『御仕置例類集』には彼の裁きが同時代の諸奉行のなかでも一、二を争うほど数多く記録されている。犯罪者と渡り合って捕縛するや、老中に「御仕置伺い」をせっせと書き提出していた。その多くが後代の奉行が参考にすべき判断(判例)として取り上げられているのである。
一方、「実録列伝」なのに困ったのは、幕末の名奉行池田頼方である。その原稿を書くために調べた当初は、人名事典に記載がないか、あっても「生没年不詳」であった。しかし江戸の住人で彼を知らない人はなかった。
国定忠治を磔にし、吉田松陰を死罪にし、江戸城の御金蔵から4000両を盗み取った2人組を磔にした。ところが幕府崩壊後、消息が掻き消えた。生没年不詳・年齢不明では伝記として締まりがない。
上野の菩提寺海禅寺を再三訪れ、維新後に改めた名を突き止めて、ようやく「過去帳」で没年と享年を確認できた。吉田松陰を死罪にした町奉行に、維新後の風はさぞかし厳しかっただろう。ところが「過去帳」には何人もの類縁者(妻妾)があるのを知り、気力旺盛な偉丈夫ぶりがうかがえてホッとした。
ところで、43人のなかには「名奉行」とは逆に、その対極にある「悪名高き奉行」も並んでいる。たとえば火付盗賊改の中山勘解由、勘定奉行神尾春央、南町奉行鳥居耀蔵などである。しかし彼らは綱吉・吉宗・家慶らの将軍にとっては、政権を懸命に支えた「名奉行」であった。
本書では「名奉行」とともに「悪名高き奉行」についても取り上げて、江戸の時代と社会と名奉行について考えてみた。
江戸の名奉行
発売日:2013年03月29日