2015.04.20 文春写真館

坂東三津五郎が舞台にみせた華やぎと品のよさ

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

坂東三津五郎が舞台にみせた華やぎと品のよさ

 江戸中期に始まる坂東三津五郎家。その九代目を父に、待望の長男として昭和三十一年(一九五六年)に生まれ、一歳二カ月で七代目に抱かれて舞台に「初お目見得」、六歳のときに牛若丸の役で初舞台を踏み「五代目坂東八十助」を襲名したという御曹司だ。

 代々の坂東流家元で、歌舞伎の舞台でも、舞踊ものには客の期待がひときわ高まった。平成十三年(二〇〇一年)の十代目三津五郎襲名では、玉三郎と「喜撰」を演じて好評を博している。

 これは平安時代の歌人・喜撰法師が、江戸時代の祇園の遊郭にやってきて、茶汲み女に惚れてしまうという筋の舞踊で、パロディの洒落や軽み、男女の艶、おどけた面白さ、当時の流行を取り入れた華やかさなどの底に、平安の歌仙にして老僧侶という喜撰の品格もにじませた、楽しくも複雑な一曲。江戸歌舞伎の粋を標榜する坂東家ならではの演目である。

 私生活でも色男で、前妻・寿ひずると別れて近藤サトと再婚したが、それも二年足らずで離婚。「喜撰」の「世辞で丸めて浮気でこねて 小町桜の眺めに飽かぬ きゃつにうっかり眉毛を読まれ」の通りだったことも。

 一方で、品があって律儀な風貌は、「蘭平物狂」や「魚屋宗五郎」のような、根は真面目な庶民や従者が、切羽詰ったり、絶望したりして、狂乱してゆく様を演じるときも説得力があった。

 また体格は大きいほうではなく、柄もやわらかいために、若いときは合わないと思っていたという弁慶や鳴神、熊谷なども後年にはこなせるようになった。「お城が好きで、戦国時代が好きなんですね、だからああいう男同士の硬派な、男が目に流せない涙を肚(はら)で流すみたいな芝居の方が、自分の本質としては合っているようですね」(襲名披露時のプログラム)とも言っている。城めぐりの趣味は本格的で、著書もあり、テレビのお城番組のナビゲーターも努めていた。

 突出した大スターではなく、個性のある脇役でもない、けれども三津五郎が舞台にいれば、舞台全体に華やぎと品のよさが出て、客は「芝居を見ている」という充足感に包まれるという役者だ。

 一つ違いの十八代目中村勘三郎とはいいコンビで、「団子売」「三社祭」などでは息の合った踊りで観客を沸かせた。勘三郎の訃報に接し「人生の半分をもぎ取られたようだ」と言ったが、そのほぼ三年後、平成二十七年二月には三津五郎も癌で逝ってしまい、歌舞伎ファンの悲しみをさらに厚くした。五十九歳だった。

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