2013.03.14 書評

進化する野生児の、すごい小説

文: 佐々木 敦 (批評家)

『ギッちょん』 (山下澄人 著)

 デビュー作『緑のさる』に出会った時は、このひとは本物の野生児だ、と思ったものだが、芥川賞候補にもなった「ギッちょん」と、その前後に発表された「水の音しかしない」「トゥンブクトゥ」を加えたこの本を読むと、ただの野生ではない、ということがわかる。当たり前だが、しかしそうではない。これはすごいことなのだ。

 私たちがフツウに「小説の書き方」だと思っていることの中には、実のところ、それがフツウだといつのまにか思ってしまっているだけのものが少なくない。山下澄人は、それらをやすやすと踏み越えてきて、私たちの思い込みに軽やかな一撃をくらわせる。だからそれはフツウではないのだが、しかしだからといって、彼は殊更に前衛とか実験をやろうとしているわけではない。フツウを超えるためにはまずフツウを知っていなくてはならない、などといった常識も彼には通用しない。たぶん彼は彼が単にフツウだと思う書き方で、彼の小説を書いている。それはしかし私たちにはフツウでなく映る。だから野生児というのだが、しかし彼は、進化する野生児なのだ。野生児も学習していけばフツウの意味でフツウになりがちだが、山下澄人の場合は、野生児のまま、つまりフツウの意味ではフツウではないまま、彼の思うフツウのままで、どんどん進化していっている。これがすごいことなのだ。

アメーバ、粘菌、または宇宙

 たとえば「ギッちょん」では、各章の頭に「その時」の「わたし」の年齢が記されてあって、書かれてあることは、その時間に対応している。しかしそれは飛び飛びで、そればかりか一章の内で、たとえば「44.36.07.36.07.31.07.36」という風に一見目茶苦茶になっていたりする。だが、重要なのはこんな「手法」ではない。山下澄人には「手法」という考え方自体、存在していない。ただ「わたし」が「わたし」が生きて死ぬ「人生」の「想い出」を「物語」ろうとすると、どうしてもこういう書き方になってしまう、それ以外では語れないということなのだ。「わたし」の幼馴染である「ギッちょん」の「想い出」は、その後に出会った何人もの人たちと入り交じり、最終的には居たのか居なかったのかさえ定かではない。もう二度と逢えないひとは、記憶の中にしか居ないひとは、だとしたら居なかったのと同じで、しかしだとしたら、居なかったかもしれないひとはみんな、居たのと同じことなのだ。これが山下澄人のフツウで、私もこれがフツウだと思う。だが結果として、それはフツウの小説とはかなり違ったものになる。出勤途中によく駅で会う男と、ひょんなことから「わたし」が言葉を交わしたところから始まる「水の音しかしない」では、小説が進むうちに「時間」がこわされ、なくなる。大袈裟に言っているのではなくて、本当にそうなのだ。ズレと変化を孕(はら)みながら繰り返されつつ進み戻る出来事たち。そこでは或る日の(あの日の)「午後2時46分」が決定的な意味を持ち、と同時に、その決定的さを徹底的に相対化される。作者は嫌がるだろうが、私の受け取り方では、これはもっとも真摯な「震災小説」のひとつである。「トゥンブクトゥ」とは、西アフリカのマリ共和国、遊牧民トゥアレグ族の都市の名称で、今から500年前には栄華を極めていた。だが小説に出て来るのは、電車の中に互いに見ず知らずの老若男女が座っていて、それぞれの「人生=記憶=時間」が、起こったこと起こらなかったこと起こるかもしれなかったこと等々、すべて込みで入り交じり、溶け合って、粉々になりつつひとつになる、までの様子である。そう、山下澄人の小説においては、ひとつのものは、たとえば「わたし」は、あっという間に複数になり、反対に複数のものは、いつのまにか似通い、同じになっていく。それはどこか、アメーバとか粘菌の運動を眺めているようでもある。と同時に、それは宇宙のようでもある。

 こう書いてくると誤解されかねないが、前衛や実験でないのと同様、ここにある3編の小説は、いずれもまったく難解ではない。むしろ大変読みやすいし、笑えるし、泣ける。ただフツウにフツウの「小説の書き方」がされていないので、たとえ大変読みやすくても、ゆっくり読む必要がある。自分の「フツウ」を解き放つようにしながら読むこと。そうすれば、ここに描かれていることが、私たちがフツウに「小説」だと思っているものよりも、私たちの「人生」や「世界」に近いということがわかる。山下澄人は、どうしてなのかはわからないが、それをやれている。だから野生児と呼んだのだが、野生のままで、彼の「小説」は、より「人生」「世界」と同じになるために、1作ごとに進化している。本書を読むと、それがわかり過ぎるほどにわかる。

ギッちょん

山下澄人・著

定価:1628円(税込) 発売日:2013年03月09日

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