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ダミ声でまくしたてるアジテーションがラッパと呼ばれた太田薫

ダミ声でまくしたてるアジテーションがラッパと呼ばれた太田薫

文・写真:「文藝春秋」写真資料部


ジャンル : #ノンフィクション

 太田薫は明治四十五年(一九一二年)、岡山県生まれ。旧制津山中学、旧制第六高等学校を経て大阪大学工学部を卒業する。大日本特許肥料を経て、宇部窒素(現・宇部興産)に入社する。順調なサラリーマン生活を歩むが、経営陣から従業員組合を結成するよう命じられ、終戦直後の昭和二十一年(一九四六年)、初代労働組合長になる。

 昭和二十五年、総評(日本労働組合総評議会)に参加。日本共産党の路線を否定し、日本社会党を中心とした労働運動を目指した。

 昭和三十年、左旋回を強める高野実総評事務局長を批判、岩井章が総評事務局長に就任すると同時に副議長になる。ダミ声でまくしたてるアジテーションは「太田ラッパ」と呼ばれた。昭和三十三年、総評議長に就任。昭和三十五年の三井三池闘争を指揮して争議指導者として名声を博した。昭和三十九年春の闘争では、池田勇人首相とのトップ会談で賃金引上げを認めさせ、これ以降、経済闘争に力点を置いた春闘方式を定着させた。

「総評議長の肩には四百五十万人の信頼と期待がずっしりとかかっている。彼はその呼び声にこたえ、全国を歩く。春闘、更にボーナス闘争と、その赴くところどこでもすぐ話し合いの場になる」(「文藝春秋」昭和三十九年五月号「日本の顔」より)

 写真はこのとき撮影(愛媛県 住友化学新居浜工場にて)。

 昭和四十年、旧ソ連からレーニン平和賞を贈られる。昭和四十一年、総評議長の座を退いてからも、ご意見番としてマスコミに頻繁に登場した。

「太田薫はどっちかというと模範的な社員だったのが、終戦直後、推されて組合長となり、ついに全国的な最高指導者にまでなった。時代の激しい渦にまきこまれることがなかったら、今頃は重役になって経営陣に加わっていたかもしれない。人柄や統率力からいうと、社長の役も立派に果せる人物だ」(大宅壮一「炎は流れる」より)

 昭和五十四年、自民、公明、民社が推す鈴木俊一の対立候補として東京都知事選に出馬するが、飛鳥田一雄社会党委員長による「太田おろし」にあい落選する。平成元年(一九八九年)、日本労働組合総連合会(連合)が発足すると、全国労働組合連絡協議会(全労協)を結成するがかつての総評のような影響力はなかった。平成十年没。

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