「お母さん」は恋などしないものだと、私もずっと思ってきた。ドラマや小説の中で見る不倫や浮気――、離婚ですら一部の特別な家庭にしか起こりえない、「当たり前」の場所にはないものだと、そう無条件に信じてこられた自分の脳天気さに呆れるとともに、若き日の母に思いを馳せる。当たり前に家族の中で「お母さん」というポジションを貫き、子どもに疑問を抱かせぬまま日々をともに過ごす。光の薄れた夫と生きることを選ぶ。多くの「お母さん」がこうやって生きている。
そして、「0年」の梨々子と近い場所にいる私は、10年後の自分を想像することがまだできない。しかし、家族の中で無事に「お母さん」でいられるのか不安に思う時に、この小説を思い出すであろうことだけは、もう漠然と、予感できている。
この本を、普通の「母」や「妻」の向こうにある背景の話、とだけ読まないでほしい。梨々子は、作中、自分が何者かでない、ということをすでに知っている。達郎や、潤や、歩人。自分の家族にとってのみ、代わりのきかない存在だということを認め、けれど、家族という繋がりだけで無条件につながり合っているわけではないということも自覚しすぎるほど自覚している。
私はひとりだ。
という梨々子の気づきは、それほどに深い。
家族ひとつひとつに、その家族の形があり、「妻」や「母」ひとりひとりに違う個性とそれぞれの事情がある。しかし、たとえ芸能人と気持ちが通い合う恋をするような事件があろうと、竜胆梨々子の物語と想いは誰にとっても普遍的だ。だから、この話が「『普通の私』の物語」と描写されることに意味がある。この小説は、とても強い。
今回、この解説をお受けするにあたって、宮下さんと担当の編集者がこの話を『イナツマ』と略されているのを耳にした。「『イナツマ』の解説を、お願いできないでしょうか」。その耳に心地よい『イナツマ』の響きを聞いてしまったら、断ることなど考えられなかった。
優しく、愛おしむように略された『イナツマ』は、著者の宮下さんにとっても大事な一冊なのだろう。ここに託された宮下さんの愛情と、導かれたラストに見える梨々子の表情をどうかたくさんの人に見てほしいと、そう、願った。
田舎に暮らす、ということはその場所の地図を、心と体に沁み込ませていくということだ。
この場所にはこの人がいて、ここの場所にはこの思い出があって、と、顔の見える人たちの中で、土地の地図を豊かにしていく。自分の日々を重ねる日記と、この地図とを持っている梨々子の口から咄嗟に出た、惚れ惚れするような方言を、皆に聞いてほしいと、心から思う。
田舎の紳士服店で買ったようなコートを着た、かつての思い人にショックを受けた私の友人にも、ぜひ届けたい。しあわせと不幸は、コート一枚には表れない。
10年後の自分を想像できない私だけれど、宮下さんと、そのかけがえのない『イナツマ』から、10年後を先取りするようにして、もう教えてもらったことがいくつかある。
一番大きいのは、きっと、その時自分がたとえどんな問題を抱えていようと、葛藤していようと、あの瞬間を迎えられるのだろうということだ。何の前触れもなく、じわじわとお腹から波がやってくるみたいに、他に何もいらないと思えるほどの圧倒的なしあわせが、「普通の私」にもきっと来る。
先取りにそれを知りながらこれからの10年を生きられる私は、宮下さんと梨々子に深く感謝しながら、きっと日々を送る。
私だけでなく。
多くの「妻」と「母」の足下を灯台のように静かに照らす、この小説は光だ。
(作家)
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