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第7回 恐怖のエアロビ

きみは赤ちゃん

川上未映子

きみは赤ちゃん

川上未映子

くわしく
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 食欲旺盛にもほどがある日々を、何の反省もなく過ごすこと約3週間。また、そろそろ検診にでかけねばならぬ時期になり、わたしは母子手帳とともに区役所で交付してもらった補助券をもってM医院にでかけていった。人気がある産院のせいか、先輩妊婦であるミガンから「今日は3時間待ったわ」とか「今日は2時間待ちやった」とか聞かされていたのだけど、ありがたいことに、わたしの場合、ここに通った1年を通して待たされたという感じがあまりないのよね。
 

 しかしM医院は、予想はしていたけれど、ちょっと高い。何が高いって診察費がやっぱりこれ、高額なのだった。出産にむけての通院をM医院以外でしたことがないので他院の詳しい事情はわからないけれど、聞くところによると、普通分娩のスタンダードな産院の場合は、毎回毎回の診察にお金がかかることってほとんどないのだそうだ。というのも、妊娠すると、自動的に先にも書いた補助券というのをもらえるからで、だいたいはそれで相殺されるのらしい。けれどM医院や、ほかの無痛分娩の産院では、保険との兼ね合いなのか何なのか独自のお会計システムというかルールがあるようで、毎回補助券を出してもプラス(少ない時でも)6千円~、平均して1万数千円~を支払うことになっており、補助券が切れる最後のほうなどは数万円にもなったりして、これが、も、毎回なのである。  
 

 ま、費用の詳しいことはあらためて書くとして、とにかく今日からは2週間に一度の検診の時期に突入する6ヶ月。慌ただしく、しかしねっとりと始まった妊娠生活も、早いものでもう折り返しなのだなと思うと不思議だった。脂肪がついただけで、まだそんなにお腹も大きくなってないしなあ。

 

 検診ではまず血圧を測り、検尿をして蛋白と糖の多さを調べ、むくみをチェックし、診察室に通されてから体重を測り、そしてお腹まわりを測定する。子宮のだいたいの大きさをお腹のうえから推定して、毎回この7つの数値が母子手帳に記録される。今日は1ヶ月ぶりで久しぶり。体重はどれくらい増え、そして子宮はどれくらい膨らんだのだろうか。なにより、赤ちゃんは元気なのだろうか。今日は顔がみえるかな。少しうきうき、うれしいような気持ちでもって、わたしは診察室のドアを明るく開けた。

「よろしくお願いしまーす!」と愛想よく入っていったわたしの顔をみて院長先生は(かなり若く見えるけど、もうここで30年ほど院長を務めているけっこうお年を召した男性の先生です)、「こんにちは」とかの挨拶もないままに、いきなり「何回目?」と訊いてきた。はい? 先生ってばいったい何のことを訊いてるんだろうか。ここにくるのが何回目かってことかしら。えー何回目だろう……なんてもごもごしてると、「エアロビ。エアロビ、いま、何回目?」。院長は、最初にこのM医院を訪れてからエアロビに何回参加したのかを、わたしに問うているのだった。「もう20回は超えてるころかな」。
 

 20回どころか、じつはまだ、例のエアロビ教室に入会すらしていないわたしだった。どころかエアロビのことなんて頭から完全に消え去ってかけらも残っていなかった。っていうか、どう考えても無理でしょう。つわりで何もかもが無茶苦茶だったこの数ヶ月、仕事するのもやっとだったのに、とてもじゃないけど踊るなんてそんなこと人間には不可能、っていうか、エアロビのことなんて、わたしはこの数ヶ月のあいだ一度だって思いだしたことなんて正直言ってまじでなかった。

 正直に。そう、訊かれたとことに、わたしはただ正直にそう言えばよかったのだけれど……しかしこの診察室という聖域というか特殊空間には圧倒的な主従めいた力学が働いていて、そんな脳天気な本当のこと、口が裂けても言える雰囲気じゃなかったの。

「エアロビ? あ、全然忘れてましたすみませーん、てへっ」なんてことは、絶対にどんなことがあっても言えない雰囲気を、院長はもわもわに醸しだしていたのだった。

 彼は、男性なのか女性なのかもうわからない、性別を優に超えたこれまた圧倒的な存在感で目の前に座り、何よりもわたしの体のなかから新しい命をとりだしてくれる予定の、この世界にたったひとりの先生なのだ。そんな先生が、口をひらくや否やわたしに訊いたのは「体調はどうですか」でも「気分はどうですか」でもなく「エアロビ何回目?」なのだ。このことから、<院長の考える出産=院長の人生>にとって、何よりも重要かつ優先されるべきものは、どこまでも本気のエアロビそれ以外のものでは断じてない、という気迫というか事実であって、その重さがどわんと伝わり、そんな先生を目の前にしてエアロビのことなんて完全に忘れてた、なんて、どんなことがあっても、絶対に言えなかった。


 嘘はあかん。嘘はあかんよ。わたしは高速で自分に言いきかせ、何よりもエアロビ教室とこの診察室は連携関係にあるのだから、そのとき逃れの適当なことをでっちあげたところですぐにバレてしまうのである。この窮地をミガンはどうやって切り抜けたのだろう。にしてもあの子! エアロビ対策について何も言ってくれてなかったやないの……! とかいろいろなことが頭を駆け巡るなか、ふっと口をついてでた言い訳はこうだった。

「つ、つわりがひどくてですね、ついこないまで寝たきりの生活を過ごしていました」。これは嘘じゃない。っていうか事実。っていうか真理。「で、やっとこないだから、恢復しましてですね、それで……」。先生はうなずきもせず、わたしの目を高貴な鷹のような目でじいっとみつめたままだ。「まだ、こちらには登録というか、入会してないんですよね。あの、寝込んでいましたから。家で……」。ちらっちらっと先生の顔をみながら、かろうじて嘘はつかずに真実を述べたわたしは深呼吸をして、院長のリアクションを待った。すると院長はさっとにこやかな笑顔をつくって「……つわりもね、エアロビしてたら軽かったはずなんだよね」。えええええええええと叫びそうになったけど、でも、もちろん叫ばなかった。そ、そうですよねえ、と相づちを打つわたしに院長は「じゃあ、入会してね、これからでも間に合うから、とにかく踊って、汗かいてください」。は、はい……と返事をして、その日はお開きになったのだった(この場合は、お開きって言わないか)。


 家に帰って、院長による本気のエアロビ推しについてあべちゃんにすぐさま報告した。「あれは本気やで。エアロビやらんかったら、生ませてもらわれへんような気するわ」。

「そうか」

 とりあえず(仕方なく)、数万円を支払って入会したけれど、でも仕事があるし、毎日エアロビクスしにいく気力も体力も余裕もない。いや、それまで存在しなかった気力や体力や余裕を、出産へむけてつくるためにエアロビをするんだよ、っていう解釈もあるだろうけれど、週に一度、検診に通うのだって「ああ時間がない」と言いながらやっているのに、やっぱり無理。わたしはミガンに、いったいどうやっているのか(どうやってごまかしているのか)をきくために電話をかけた。

「エアロビ行ってんの」

「行ってないよ」とミガンは当然ぶった声で言った。

「行ってないよな! だってミガンなんか現場あるし絶対的に無理やんな! 時間ないよな!」とわたしはがぜん頼もしくなり、思わず声が大きくなった。

「あるかいなそんな時間」

「そうやんなっ、そうやんなっ」

「そうや」

「でも、めっさプレッシャーやんか……先生」

「でも無理やもん」

「無理よなあ」

「むりむり」

「じゃあどうしてんのよ」

「え、わたし? わたしは、ほれ、受付のところでDVD売ってるやん。あれを家でやってますって感じにしてる。なんとなく」

「まじか」

「そうそう。訊かれるやん、入ってすぐ。そしたらめっちゃ自信たっぷりな感じで『家で1時間くらいしてます!』って言って、それでその話題は終わりな感じにするねん。それでもちゃんと通えって言われるけれど、わたしってそういういわゆる先生方面からのプレッシャーをスルーするの得意やねんなあ、昔から。そやからけっこういけてる」

「まじか」

「だって、通うなんてぜったい無理。併設スタジオに入会してそこに通うことが目的なんじゃなくて、エアロビすることじたいが目的やねんから、家でやればそれでまったく問題ないはずやん」

 だからと言って家でやってるわけでもなんでもないミガンだけれど、しかしまあ、そのとおりではある。何万円も支払ってない時間を削っていくより、DVDで、全然いいですよね。でも、こないだ先生は、たしかこんなことも言っていた。ひとりでやっても意味なくて、みんなで汗を流すことが大事なんだ、って。じゃあ、併設スタジオじゃないけれど、でも家の近くの、もしくは自宅のスタジオでやってるよ、というふうにしておけば、誰も傷つかず、誰もストレスがたまることもなく、万事快調ってな具合にすべてが収まるのではないだろうか。で、わたしは家で、やれるときにDVDをみて、ちゃんと汗を流す、と。場所の設定に若干の飛躍があるような気がするけど、思い込めばリビングだって、スタジオっちゃあスタジオであるような気がしなくもないではないか。オッケー。これからはこの設定でいこう。我が家のリビングは今日からスタジオも兼ねるようになったのだ。そんなふうに固定されると、なんだか少し、肩の荷が降りたような感じがした。  

 


 そして翌週。「いま何回目?」という先生の言葉をわたしは笑顔で受けとめ、そして華麗に聞き流して、次のように答えた。「あ、入会はしたんですけれど、エアロビはべつのところでやってるので……」

 いっしゅん、院長先生の顔がぴたっと静止したように見えたけど、ほんとのところはわからない。するとつぎの瞬間「どこで?」という質問が飛んできたので、わたしは用意していた「自宅のリビング=スタジオ設定」を思いだし、あの、家のスタジオで……と答えようとしたのだけれど、なんかやっぱりでもそれは、家にスタジオってのは、ちょっと飛躍と解釈としてなんかやっぱ問題あるかも、と瞬時に思い直し、とっさに口をついて出たのが「あ、あの、家の近所の、スタジオで……」だった。思ってた以上にうろうろと自信のない声がでて、わたしはそのことにまず焦った。なんだよ! もっと堂々と言わないと意味ないじゃん! 嘘をつくのにあんがい慣れていなせいでのこの体たらく。情けないことこのうえないわ。表情だって頼りなかったに違いない。でも、いいだろう。これで説明はついたのだ。どこであろうとエアロビはエアロビなんだもん!

「どこの?」

「へ?」そこで話がきれいに終了すると思っていたわたしは先生の質問にへんな声がでた。

「どこの? なんていうスタジオ?」

「ど、どこのって……」

 エマージェンシーである。イメージ上の赤いランプが点滅してわんわん言い、酸素が完全になくなるまであと3秒、みたいな感じだった。しかしわたしは、小説家である。嘘を書き、日々の糧を得ている、いわば嘘のプロフェッショナルでも、いちおうあるのである。これくらいの窮地、受けてたったるわ……と鼻の穴をふくらませたわたしの口からでてきたのは、

「隠れ家的、な、スタジオっていうかその……」

 わたしは、わたしに言うたりたい。隠れ家的っていったいなんだよと。そして隠れ家の使いかた、完全に間違ってるから、と。


 そしてわたしは、翌日から週に3日のペースで併設スタジオに通うようになった。スタジオには臨月の妊婦、中期の妊婦、妊娠が発覚したばかりの妊婦が大勢いて、ほんとうのにものすごく足をあげて、額に汗をかきかき、猛烈に踊っている。はじめての日は、死ぬかと思った。でも、ひいひい言いながらも汗をかくと、なんだか爽快感かつ達成感がものすごくあるのも事実で、「エアロビ、あるで……」と、なんだかちょっとうれしかった。スタジオでは不正ができないように、カードにスタンプが押され、その日のことを細かく記入するためのファイルがひとり1冊、用意されている。院長先生の顔が目に浮かぶ。エアロビを制するものは、出産のすべてを制するのだ。踊って、踊って、踊りまくれ! ……ハッ、これってダンス・ダンス・ダンスっぽい……なんかいいかも……! とか思いながら、しかしこのような管理下におかれ、これからの約半年、わたしはこの任務をまっとうすることができるのだろうか。や、エアロビは任務でもなんでもないのだけれど……とにかく、この年齢になってまで、先生の顔色を気にしながら何かをがんばるなんて思ってもみなかったし、そう思えばまあ、これはこれで悪くないかな、とも思うのだった。しんどいけど。

文春文庫
きみは赤ちゃん
川上未映子

定価:792円(税込)発売日:2017年05月10日

電子書籍
きみは赤ちゃん
川上未映子

発売日:2017年05月19日

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