- 2012.04.26
- 書評
選手二名が死亡した
大事故はなぜ起きたのか?
文:中部 博 (ノンフィクション作家)
『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』 (中部博 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
1974年6月の富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦で、マシン4台が炎上し、ふたりのレーシングドライバーが死亡する事故が発生した。そのとき僕は20歳だった。ひとりのモータースポーツファンであった。
レース事故の詳細を専門誌の記事で読んだとき、なぜ、このような事故が起きたのだろうか、と疑問に思った。
というのは、ほぼ同時にふたりのレーシングドライバーが事故死したからである。亡くなったのはベテランの鈴木誠一と、期待の若手であった風戸裕だった。このレースは、日本のトップクラスのレーシングドライバーが出場する興行イベントレースで、出場していたのは高橋国光、北野元、生沢徹、黒沢元治など、だれもが知るスター選手が多かった。そのようなレースに出場するレーシングドライバーの鍛えられた運転技量や危険予知能力は、驚くほど高いレベルにあるから、その人たちふたりが同時に事故死するほどの、とてつもない事故だったのだろうと思った。頭のかたすみに、この事故の記憶がこびりついた。
モータースポーツは死亡事故の多いスポーツだ。山や海のスポーツは、それ以上に危険性が高いという人がいるが、そのような命がけのスポーツのひとつである。生きていることを謳歌するために人間は知らず知らずのうちに生死の境をさまよってしまうものだ。
レースはそういう危険性をはらむスポーツだが、ひとつのレース事故でふたりのレーシングドライバーが同時に亡くなったというケースが他にないことに、あるとき気がついた。その規模において、これは世界のレース史のなかで最大の事故だったのである。
しかもこの事故は、レーシングマシンの突発的な故障が原因ではなかった。スタート直後に2番手争いをした2台のレーシングマシンが接触事故をおこしたことから、多重クラッシュが発生した。7台のマシンが走行不能になり、そのうち4台が炎上した。炎上した4台のマシンから、ふたりのレーシングドライバーが脱出して命拾いをし、ふたりが帰らぬ人となった。
2番手争いをしたのは、もちろんトップクラスのレーシングドライバーたちであった。スタート直後に2番手争いで激しい接触事故がおきれば、後続のマシンがいるのだから、多重クラッシュに発展してしまう可能性があることを知らないはずがない。
しかしそれでも事故はおきた。「なぜ」だろうと、僕は思った。あまりにも不可解な事故であったからだ。
「だれ」という犯人さがしならば、このレース事故を、業務上過失致死傷罪の容疑で刑事事件として捜査した警察と検察が、ひとつの結論を出している。捜査陣が指摘した過失を認めたひとりのレーシングドライバーが、書類送検され、新聞記事になって社会的制裁をうけたあげくに、不起訴処分になった。 刑法的には無罪である。スポーツの現場の死亡事故で選手が書類送検されることはありうるのだろうが、これは異例のことであった。
問題の本質は、「だれ」が事故をおこしたのかではなく、「なぜ」事故がおきたのかである。
ひとりの人間の行為とその結果が、その人間が属するレース界や社会と無関係に存在するとは考えられない。ひとりの人間を追い込むものは、人間と人間の集団しかない。
僕はレース好きが高じて、いまもアマチュアのレースに出場しているほどだが、このレース事故の原因について考えているうちに、そこに人間と人間の集団というものが見えてきた。
若いときの自分の疑問に応えることができるかもしれないと思った。モータースポーツを愛好してきたから、多少なりともこのスポーツに詳しい。月並みだろうが、人間や社会について考えてもきた。
このレース事故で生き残ったレーシングドライバーや、事故現場となった富士スピードウェイにいた人たちを、僕はたずね歩き、話をきいて質問を重ねた。いくつかの貴重な資料を提供してくださった古くからのレースファンたちがいたので、目撃していない事故のシーンを、いまになって遠くから見たような気持ちになった。
とりわけ生き残ったレーシングドライバーたちの貴重な証言は、驚きと刺激にあふれ、ほんの数秒間の出来事が、長編ドキュメンタリー映像のように思えた。真情が吐露されれば、その言葉の前で思わず立ちすくんでしまったこともある。亡くなられたふたりのレーシングドライバーの無念を感じ、目を閉じてご冥福を祈るときもあった。
そのような僕の取材経験を丹念に綴った。書き上げた360ページの本は、『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』というブックタイトルがついた。