阿部 もう1つのコンセプトは、2011年5月の米軍によるビンラディン暗殺の直後に書いた「Geronimo-E,KIA」、原発事故や津波を背景に取り入れた「In a Large Room with No Light」「Ride on Time」のように、ごく最近に起きた事件や、社会事象をストレートに取り入れていることです。
そこには、「9.11」の、あのワールドトレードセンターに旅客機が激突する映像を見た時の強い衝撃、そして以来10年以上ずっと考え続けてきたことが影響しているのだと思います。あの映像は映画に似ていると言われましたし、その後よく「フィクションが現実によって乗り越えられてしまった」という言われ方をしました。ただ僕自身にとってのあの事件の意味合いはもう少し複雑です。
あの映像はテレビカメラだけではなく、現場周辺にいた一般の人たちのハンディビデオカメラによって撮影されました。それがマスメディアに流れ、ネット上でも紹介される形で世界にばらまかれた。それはYouTube 登場後の今や当たり前の風景になりましたが、その起点が、あの9.11でした。
マスメディアの単一の視点によって切り取られた「現実」なるものが、嘘臭く見えるようになり、代わりに無数の素人の視点がそれぞれの「現実」を提示するようになった。その結果、何が正しくて何が正しくないかは相対化され、ただ大量の情報がネット上に漂うようになったわけです。
今回の12作品は、この世界史的激動とメディア化・情報化の時代に生じている変化を見定めつつ、あるべき小説の姿を自分なりに模索する作業の記録だと思っています。
と同時に、読み物としても楽しんでいただきたいという気持ちも強く持っているので、短編という形式での物語性の追求も心がけました。じつは短編には、やや苦手意識があったのですが、ここ数年継続的に書いてきて、やっと自分なりの短編の書き方がつかめたような気がしています。
――東日本大震災から1年ほどの時期に雑誌に発表された作品もあります。当時は、「震災をフィクションのネタにするなど不謹慎だ」という風潮もありました。勇気が要ったのではないですか?
阿部 やはり震災から1年ほどの時期に、ある新人賞の選考委員会に参加した際、震災を扱った候補作に対して「まだ小説に描くには時期が早すぎるのではないか」と疑問を投げかける選考委員がいました。しかし僕はその意見には賛同できませんでした。そもそも小説は、常に人間の死を扱っているわけです。大量死だからダメなのでしょうか? あるいは、今この瞬間でも、世界では戦争や災害がたくさん起きていて、大量の人間が死んでいる。「早い、遅い」の問題ではないと思うのです。
たとえば、第2次世界大戦の直後には、野間宏や武田泰淳といった作家たちが、自らの戦争体験を踏まえた作品を書き、「戦後派」と呼ばれた。それと同じように、「3.11」後の現実を小説が描くことには何がしかの意味があると考えています。かといって、震災や戦争だけがフィクションで特別に扱われることには疑問です。「個人死」も「大量死」も同列に突きつめて物語るべきなのが、文学の使命だと思うのです。
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