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ノーベル文学賞に非常に近かった安部公房

ノーベル文学賞に非常に近かった安部公房

文・写真:「文藝春秋」写真資料部

 安部公房は大正十三年(一九二四年)東京生まれ。本名きみふさ。翌年、父が満州医科大学の医師だった関係で、家族とともに満州にわたる。旧制中学を卒業後、帰国して旧制成城高校に入学。昭和十八年(一九四三年)、東京帝国大学医学部に入学するが、満州に戻り、終戦を迎える。昭和二十一年、再び帰国。昭和二十三年、東京大学医学部を卒業するが、医師国家試験は受けなかった。

 昭和二十六年、「壁―S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞を受賞。昭和三十七年に発表した「砂の女」や「燃えつきた地図」(昭和四十二年)は、国際的にも高く評価された。また戯曲でも昭和三十三年、「幽霊はここにいる」で岸田演劇賞を受賞。昭和四十二年、「友達」で谷崎潤一郎賞を受賞している。昭和四十八年には、演劇集団「安部公房スタジオ」を結成した。

 また、機械などへの好奇心も強く、日本で始めてワープロを使った作家とされる。平成四年(一九九二年)暮れに、執筆中に脳内出血で倒れ入院。翌年一月、他界した。

 スウェーデンアカデミーのノーベル文学賞委員会のペール・ベストベリー委員長は、読売新聞のインタビューで、「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。非常に、非常に近かった」(二〇一二年三月二十三日付)と述べている。

 写真は昭和三十三年十一月撮影。

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