傾国子女

第四回

文: 島田 雅彦

無二の親友、由里と出会う

壁越しに感じる秘め事の気配

 ある日、花岡が母の部屋をノックしました。一言二言あって、母は書斎に行き、そこで花岡とお酒を飲みながら、夜遅くまで話し込んでいたようです。次の日の朝、私は母の部屋をノックしましたが、返事はありませんでした。私が朝の支度を済ませ、一人で朝食を食べていると、母は憑き物が落ちたような爽やかな乙女顔で、テーブルに着きました。五分遅れて、花岡がポーカーフェースで螺旋階段を下りてきました。花岡を見る母の目は一回り大きくなっていました。ああ、二人のあいだに何かあったな、と思いましたが、晩生の私はまだ男と女の秘め事を具体的に想像することができませんでした。

 二日後、私がトイレから自分の部屋に戻ろうとすると、階段を上ってくる足音が聞こえました。私はとっさに母の部屋の隣の空き部屋に隠れました。花岡が母の部屋をノックすると、母は間髪を入れずにドアを開け、花岡を迎え入れました。私は自分の部屋に戻るタイミングを逸してしまい、息を潜めて花岡が去るのを待っていました。二人は何事か話し合っているようでしたが、壁越しではその内容まではわかりません。ふと、部屋の暗がりでかすかに光る物が見えたと思ったら、チャンドラグプタでした。ここは花岡が猫と遊ぶ部屋でした。花岡は猫の健康診断もするのか、床には聴診器が落ちていました。私が何気にそれを耳につけ、聴音部を壁に押し当ててみたとたん、自分も同じ部屋に居合わせているように、二人の会話が生々しく聞こえてきました。

――あの人を忘れさせてください。

――どうすれば忘れられるのかな?

――こうして毎晩、あなたが私を抱いてくれれば、私は少しずつあなたのものになります。

――ぼくが君たちを買ったなどと思わないでくれ。

――私は売られてよかったと思っているんです。だから、どうぞ私を好きにしてください。

 母の囁きに私は動揺しましたが、聴診器を壁に押し付けたまま、その後の成り行きをじっと聞いていました。粘膜が絡み合う音に吐息が重なり、次いで衣擦れの音が聞こえました。さらにベッドのスプリングが軋む音がすると、母の短い呻き声が漏れてきました。ベッドの軋む音と粘膜質の音はより激しくなりました。

 壁から管を通って、耳に伝わる音が像を結び始めました。花岡が眼鏡をかけたまま、赤ん坊のように母のおっぱいを吸う光景がまざまざと瞼に浮かび、ついで母が口を一文字に結び、声を押し殺している様子が見えるようでした。私はいたたまれなくなり、聴診器を耳から外すと、音を立てないよう部屋のドアを開け、猫の忍び足で自分の部屋に戻りました。しばらくは胸がドキドキして眠れません。母が囁いたコトバが耳にまとわりついて離れません。

 ドウゾワタシヲスキニシテ……

 ワタシハウラレテヨカッタ……

 父は母と私を花岡に売ったのです。そして、母はそれを受け容れることで、父を捨てたのです。

 私が私のものでなくなるってどういうことなのだろう? 父は私に何をさせたかったのだろう? 花岡は私をどうするつもりだろう?

 私には父の裏切りも母の冷淡さも理解できず、漠然とした不安に胸を締めつけられ、枕に顔をうずめて泣くことしかできませんでした。

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傾国子女

島田雅彦・著

定価:1680円(税込) 発売日:2013年1月11日

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