巨体と大きな声で全国を精力的に遊説し、「人間機関車」「演説百姓」の愛称で親しまれた浅沼稲次郎。社会党書記長、委員長を歴任した。早稲田大学では雄弁会と相撲部・ボート部に所属。「文藝春秋」昭和二十八年(一九五三年)八月・夏の増刊号では、慶應義塾大学の藤山愛一郎(日商会頭)らとともに、「母校のチャンピオン」というグラビア頁に登場している。社会党が左右両派に分裂していた時代であった。
明治三十一年(一八九八年)、東京・三宅島に生まれた浅沼は、昭和三十五年、社会党委員長に就任する。そして、総選挙を目前に控えた同年十月十二日、自民・社会・民社三党党首公開立会演説会が東京・日比谷公会堂で開かれた――。
〈ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、六十一歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けてきた十七歳のテロリストと、激しく交錯する〉(沢木耕太郎「テロルの決算」)
短刀を携えた右翼の少年、山口二矢が、演壇に立つ浅沼に向かって駆け上がる。
〈浅沼の動きは緩慢だった。ほんのわずかすら体をかわすこともせず、少し顔を向け、訝しげな表情を浮かべたまま、左脇腹でその短刀を受けてしまった。短刀は浅沼の厚い脂肪を突き破り、背骨前の大動脈まで達した〉(同前)
浅沼はまもなく絶命した。八日後に行われた社会党葬は、冷たい雨の降るなか、二千六百人の参列者を得て、盛大に行われた。会場は、事件と同じ日比谷公会堂であった。