文春写真館

原節子が隠し通した癒しようのない疲労の深さ

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

原節子が隠し通した癒しようのない疲労の深さ

「永遠の処女」と呼ばれた原節子は、生涯独身を通し、伝説に満ちた生涯を送った。昭和三十八年(一九六三年)に映画界を引退し、その後は亡くなるまで、いっさい世間に姿をみせなかったからだ。

 大正九年(一九二〇年)、神奈川県生まれ。本名会田昌江。女学校在学中に、義兄で映画監督の熊谷久虎のすすめで映画界入りする。昭和十年(一九三五年)、日活多摩川撮影所に正式に入社した。デビュー作「ためらふ勿れ若人よ」で演じた役名から「原節子」を芸名とした。

 昭和十一年、来日中のドイツ人アーノルド・ファンク監督の目にとまり、日独合作映画「新しき土」のヒロインに選ばれる。国策的に作られた作品だったが、大評判となり、一躍スターとなった。

 戦後の昭和二十二年、フリーとなる。「安城家の舞踏会」「青い山脈」で戦後の人気を確立した。「東京の恋人」(昭和二十七年)以降、しばらくスクリーンから遠ざかったが、翌年「白魚」で復帰する。しかし、この撮影現場でカメラマンだった実兄会田吉男を事故でなくしている。

 代表作のひとつ、「東京物語」(小津安二郎監督)はこのすぐあとにクランクインした。小津のもとで助監督をしていた高橋治は「絢爛たる影絵」(文春文庫)のなかで、「小津安二郎あっての原節子であり、原あっての小津だった」と言う。

「原節子というと“大輪の花”のようなという枕詞がよく使われた。だが、私の思い出す原節子は違う。背骨をはさんで二列にびっしりとトクホンがはってあった。背中がうつる本番前には必ず私を手招きし、念を押すように、

『高橋さん、背中、大丈夫ね』

 という原節子だ。『東京物語』は真夏の話である。原は純白のブラウス一枚で出演することが多かった。当時、衣裳の下をすかして体の線を狙うような照明は使われなかった。薄物一枚でも衣服は衣服として撮す。背中のトクホンがうつる心配は絶無といっても良かったが、そこは演技の質といい、人気の高さといい並ぶ者のない地位にあった原の誇りが許さなかったのだろう」「トクホンへの説明は一切なかった。だが、二列で確か八枚のトクホンは原の癒しようのない疲労の深さを如実に感じとらせた」

 この後、原は通院をくりかえすようになり、昭和三十七年、「忠臣蔵花の巻・雪の巻」が最後の出演作品となった。

 翌年小津が没すると、その死に殉ずるかのように原はあらゆる公的な場から身を退いてしまった。平成二十七年没。

 写真は昭和三十二年撮影。

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